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2012年1月

2012年1月30日 (月)

「私」‥5

飲会が続きブログどころではなかったけど、やっと落ち着きましたのでやってみるとしますか。
それで、夢についての続きです。
夢の中ではたいていのことは出来る。鳥のように空を飛ぶことも、馬のように早く走ることも、
火の中や水の中にいることも、それは楽しかったり苦しかったりするが、やれそうなほとんどの
ことを夢では出来る。
しかしただ一つ今まで出来なかったことがある。それは夢を見ることだ。つまり夢で夢を見ること
は出来ない。言い方を変えると、夢の中で眠ることは出来ない。
眠ることは、起きて色々なことをするのと同じ位身近なことなのに、そして夢は起きている時
経験したことや、経験したいと思ったことなのに、どういう訳か眠る夢は見ない。不思議ではないか。
これは頭(脳)の構造上出来ないことなのか。
そしてこれは私が「私」のことが分からないことに通じるのではないか。‥‥
ことによったら夢の中で眠った瞬間に死ぬことになるのか。‥‥
誰か、夢の中で夢を見た(自分が眠る夢を見た)と言う人がいたら是非教えてもらいたい。

2012年1月24日 (火)

「私」‥4

さて今日も「私」を書いてみよう。
あの「徒然草」も典型的な「私」文章だ。世間のことを「私」が感じたまま書いている。
文字通り、徒然なるままに書いている。まあエッセーはみんなそうなのでしょう。
私もそのようなものとして書きたいと思っています。まったく拙いけれど。‥‥
さて、夢の中の「私」のことです。夢の中でも「私」は意識としてあるだけで姿は見えない。
いや、自分の姿を夢で見ると言う人もいるかもしれないけれど、私は「私」を見たことがない。
夢の景色をよく見ると、やはり自分が見ている周りの景色だ。これは覚醒している時の様子
と形が同じのように思われる。夢はやはり記憶をベースにしたものだからなのか。
しかし夢では理屈に合わないことも多い。特に時間の順番はまったくでたらめだ。子供時代の
夢に大人の知人が出てきたり、とうに死んだ人が最近の景色に入ってくる、などなど。
思うのですが、せめて夢なら夢らしく物の内側とか、人の心の中とか、未来の出来事とかの
普通は不可能な、非現実的なことを見たいものだ。
そして「私」とは何かが夢の中で見えたらすばらしいのに‥‥。
ある哲学者(故人)が、夢は起きた時に見るものだと言っています。
つまり夢の中では夢と気が付かないので、夢と分かるのは起きた時だと。その通りでしょう。
夢の中で「あ、これは夢だ」と思うようなことがありますが、それはその時(瞬間)だけ起きたの
だということです。‥‥もっと正確に言えば、夢とは起きた時に頭にあった(夢の)記憶です。
その限りで夢は起きた時に見るものだということです。上で述べたことも私が起きた時に見た
夢のことになります。そして起きた時の私とは、「私」が何かは分からない訳ですから、「私」が
何か分かった夢を見ることはできないということです。

2012年1月20日 (金)

「私」‥3

今日は朝から雪で寒い。
家族やアルバイト先の人も「寒い」と言います。
でも、寒がりようは私と他人ではどうも違うような気がします。私は少し寝不足気味なので
私が一番寒いような気がします。「ウヒャー寒い!」、「寒いですねー。」と言って今日が寒
いことは共有して話は通じるけれど、厳密にどれだけ寒いのかは比較できません。
気温が3度だから寒さの程度は皆同じだと言うことではないのです。服装が違うからでもな
い。3度でも、感じる寒さが私と他の人とで同じではないようだと言いたいのです。
極端な例をあげれば、ここにエスキモーの人を連れてくれば、彼は「暑い」と言うでしょう。
数万年間の環境の差が体質の差を作り出したからでしょう。
しかし、この場合でも「私にとっての寒さ」と「彼にとっての暑さ」の差を厳密に(客観的に)
説明することはできないはずです。
これは「私」が、私の体から一旦抜け出して「彼」の体に入り比較して初めてわかることな
のだろうと思います。しかし、それが現実にできるわけはありません。だからこれは絶対に
確かめることができないと言うほかありません。原理的に不可能ということです。
‥‥そしてこれはこの温感だけでなくすべての感覚(五感全部)について言えることだとい
うことになります。
そのように「私」はすべての他人と違うのによくもまあ60年も(私の場合)他人と付き合って
きたものだとあらためて感心します。
‥‥「私」が何かはわかりませんが、他人とは違うようだということはわかりました。

2012年1月19日 (木)

「私」‥2

この世にいる理由なくここにいるのが「私」でした。
では理由なくここにいる「私」とは何かを問う「私」とは何でしょうか。
ここで「私」を問う無限連鎖がはじまります。つまり、それを問う「私」とは何か、
またそれを問う「私」とは何か、さらにそれを問う「私」とは何か‥‥‥と。
前回の堂々巡りと同じです。
私の頭がボケ始めてこの傾向があるのかもしれません。
しかしよくよく考えると、もの心がついて以後(いつ頃だったかこれもわかりませんが)
「私」に関しては一歩も前進することなく今に至っているのですから、ず~っと堂々巡り
していると言ってもよさそうですよ。
考えてみたら不思議です。「私」とは何かわからないまま、日常的に私は、私は、私は‥‥
と言いながら暮らしているのですから(私はそうですが、他の人もそのようですね?)。
そして本日の結論は(毎回結論に達しなくても別にいいのですが)、「私」とはそれが何かは
わからないまま皆に使われている何かである、と。

2012年1月17日 (火)

私について

私のジャンルは(多分)哲学です。
ただ哲学と言うとこ難しい、始末に置けないもののイメージがあるかもしれません。
そうであるとも、そうでないとも言えると思います。
まず一番身近な「私(自分)」について考えます。
私とは何か。‥‥今パソコンのブログを打っている本人です。その本人とは何か。‥‥
ここで私です、と言ったら堂々巡りになります。堂々巡りがダメというわけではありません。
ただ飽きてしまいます。だからなるべくそうならないように(少し)気をつけます。
例えばこうです。本人とは、すでに60歳を過ぎた、男です。ご飯を食べること以外には
これというとりえは今はありません。とりえがないのに何故今生きているのか。
いや、とりえが理由で人は生きているわけではなかろう(と居直ります)。
そもそも何故私がこの世に生きることになったかはまったく分からない。
「お父さんとお母さんから生まれたんだよ」とよく言いますが、知識(記録)としてそうだと
されるだけで実のところは理解できません。「ああ俺はこの世に出たな」という記憶はどこ
にもありません。この世にいるという意識をいつから持ったのか、これが分かりません。
だから、なぜ私がこの世にいるのかが分からないのです。
そして、本日の結論は‥‥この世にいる理由なくここにいるのが私のことだった。です。

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