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2012年2月28日 (火)

「私」‥22

前回言いました、「私」は自分一人では成り立たず、相手に認められて成り立つという考え方
は果たして正当性があるものでしょうか。これは相手から見られ、相手から思われる意識を以
って「私」を考えるということです。つまり、私(自分)を客観視する、私(自分)を相対化して見
てみるということで冷静で間違いのないもののように思えます。
近年の道徳的な「相手の立場になって考える」という言い方と同じもののようにも思えます。
これは恐らく(違っているかもしれませんが)キリスト教的な「自分にとって苦痛であることを相
手に行なってはならない」とも同じ根拠を持つ考え方ではないでしょうか。そしてこれに反論を
加えることは不可能と言えるほど確定したもので、反論そのものが反道徳的とされそうな気が
します。
では、あくまで私が自分で「私」を分かろうとするのは道徳に反したエゴイズムということになる
のでしょうか。道徳に反し理性に反する故にこれが難しいことなのでしょうか。
しかしそうだと言えばそれにも違和感があるように思います。
「オレオレ詐欺」を引き合いに出したとは言え、私が「私」を追及することに罪悪感など少しも感
じないからです。ただこれを考えることはこどもの頃から縁のなかったことで不慣れで難しいと
いうことなのです。そんな難しいことは考えずに、私は人から「あなただ」といつも通り言われて
安心して暮らせばいいじゃないかと言う声も聞こえて来そうです。
しかし私は上の「相手の立場になって考える」ということの道徳性にも疑問を持つのです。
それが道徳的だという根拠はどこにあるのでしょうか。‥‥それは、相手の痛みを自分の痛み
として共有する、つまり相手に同感することは相手をいたわること、人権の尊重なのだという考
えだと思います。私はこれを「感情移入的同感道徳」と呼びます(変な呼び方ですが)。
そしてこの道徳性の根拠は実は希薄なものでしかないと思うのです。

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