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2012年2月 9日 (木)

「私」‥8

「私」の同一性とは、私であれば、60年間私は「私」であったという確信が持てることです。
すべての人はこれを持っているのが普通でしょう。私も持っています。
まさか40年以前の私は「私」であったという確信がないとは思いません。
もちろん、ある時に精神的あるいは物理的に強いショックを受けて記憶喪失となった人は、その時以前
の記憶がなければ(その時以前については)「私」であったという確信はないことになりましょう。
しかし、ここではそのようなケースは病理学的例外としておきます。
そうではなく普通なら、私は生まれてからずっと「私」であったという感覚を持っている、それを当たり前
と考える、そこに疑いの入る余地もなくそう確信している、と言っていいように思う。何故なのか。‥‥
ここで一転、自分の「死」のことを考えてみます。
「死」とは60年間も途切れることなく続いてきた私が「私」でなくなることです。
この世の何処にも「私」が見当たらなくなる。そう思うことすらなくなる。存在しない。‥ということです。
自我が芽生えたこどもに「死」のことを言い聞かせると必ず泣き出すものです。
こどもにとって「自分」を認識した途端の「自分」の「死」の想像ほど理不尽なものはないからでしょう。
こどもは純粋に(本能的に)「私」が何であるかを知っていると言えるかもしれません。
そうすると、おとなである私が「私」は何であるか分からないとはどういうことになるのでしょうか。
こどもより長く生きている分、私の中に「私」が溜まりすぎて逆に「私」を見失いはじめたのでしょうか。
なまじ「私」の記憶を溜めてきたがために、本当に肝心なことを見失なってしまっているのでしょうか。
そうだとすると、長生きは感心すればいいというものでもなくなりますね。‥‥?

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