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2012年2月

2012年2月29日 (水)

「私」‥23

「相手の立場になって考える」ということの道徳性について検討してみましょう。
まず「道徳」とはどういうことであるか決めておく必要があります。道徳の定義は簡単なようで
実は極めて難しいものです。「善いことを行なうことだ」と言うでしょうが、「善い(良い、好い)」
とはどういうことでしょうか。ウィキペディアから引用すると以下の通りです。

①人の行動・性質や事物の状態などが水準を超えているさま。(以下例示)
 ・質が高い、能力がすぐれている、美しい、すばらしい、健全である、有益である、‥‥
②人の行動・性質や事物の状態などが、当否の面で適切・適当な水準に達しているさま。(以
 下例示)
 ・正しい、好ましい、幸せである、やさしい、‥‥
③人の行動・性質や事物の状態などが許容範囲内であるさま。(以下例示)
 ・許せる、承認できる、さしつかえない、‥‥

まだ続きますが、これ以上は悪趣味でしょうから止めます。これでも一部なのですが、あまり
にも多義的でよく分からないのが正直なところではないでしょうか。
20世紀前半に活躍したイギリスの哲学者ムーア(経済学者ケインズの師)は「善い」を定義
不能としたくらいなのです。そして「道徳」とはこの「善い」と「悪い」を見定めた上で「善いことを
行なうこと」なのでしょうが、これでは「道徳」にたどりつくことすらできません。
‥‥極端な言い方をしてしまえば、「道徳」は紀元前のギリシャ時代から今日に至るもはっき
りとは定まっていないことだと言っていいでしょう。
‥‥ありゃりゃ?「相手の立場になって考える」まで今日はたどりつきませんでしたね。

2012年2月28日 (火)

「私」‥22

前回言いました、「私」は自分一人では成り立たず、相手に認められて成り立つという考え方
は果たして正当性があるものでしょうか。これは相手から見られ、相手から思われる意識を以
って「私」を考えるということです。つまり、私(自分)を客観視する、私(自分)を相対化して見
てみるということで冷静で間違いのないもののように思えます。
近年の道徳的な「相手の立場になって考える」という言い方と同じもののようにも思えます。
これは恐らく(違っているかもしれませんが)キリスト教的な「自分にとって苦痛であることを相
手に行なってはならない」とも同じ根拠を持つ考え方ではないでしょうか。そしてこれに反論を
加えることは不可能と言えるほど確定したもので、反論そのものが反道徳的とされそうな気が
します。
では、あくまで私が自分で「私」を分かろうとするのは道徳に反したエゴイズムということになる
のでしょうか。道徳に反し理性に反する故にこれが難しいことなのでしょうか。
しかしそうだと言えばそれにも違和感があるように思います。
「オレオレ詐欺」を引き合いに出したとは言え、私が「私」を追及することに罪悪感など少しも感
じないからです。ただこれを考えることはこどもの頃から縁のなかったことで不慣れで難しいと
いうことなのです。そんな難しいことは考えずに、私は人から「あなただ」といつも通り言われて
安心して暮らせばいいじゃないかと言う声も聞こえて来そうです。
しかし私は上の「相手の立場になって考える」ということの道徳性にも疑問を持つのです。
それが道徳的だという根拠はどこにあるのでしょうか。‥‥それは、相手の痛みを自分の痛み
として共有する、つまり相手に同感することは相手をいたわること、人権の尊重なのだという考
えだと思います。私はこれを「感情移入的同感道徳」と呼びます(変な呼び方ですが)。
そしてこの道徳性の根拠は実は希薄なものでしかないと思うのです。

2012年2月26日 (日)

「私」‥21

最近の「オレオレ詐欺」のことを少し考えてみます。「私」の問題とどう関係あるのかと言えば、
「オレ」とは「私」の別称であり、この詐欺は他人の「私」になりすます騙(かた)りです。それは
れっきとした犯罪ですが、この犯罪者は他人の「私」にどう化けるのか興味が湧くからです。
知られる通り、多くの場合お年寄りを狙ってその人の孫に化けようとします。父親、母親なら
息子の声音(こわね)の区別はつきますし冷静さもありますから、お祖父さんかお祖母さんを
狙うことになるわけでしょう。事実、我家にも二度「オレオレ」の電話があり、妻と娘が受けてす
ぐ感付きましたので被害は受けませんでした。
犯人がなりすます対象は大体が十歳代後半から二十歳台後半の男とはいえ会ったこともなく、
ただ名前と年齢はほぼ把握していている場合がほとんどのようです。従って犯人自身にとって
は、ある若い男をイメージして孫を演じるということになります。電話の相手のお年寄りの錯覚
を期待し、いわば錯覚に賭けて、声で演じるわけです。これはテレビの映画やアニメの声優の
心理状態とまったく近いと言えそうです。主人公に感情移入し、心をこめて訴えかけます。
「おじいちゃん、オレオレ!困っちゃったよ、なんとかしてよ。150万円がいるんだよ!‥‥」
お祖父さんはこの名演技を疑いもせず、すぐお金の工面をしてやろうと銀行に向かいます。
犯人はこの電話のやり取りにおいて、お年寄りの反応を感じ取ろうと神経を研ぎすますはず
です。少しでも疑念のニュアンスがあれば実行を断念するでしょう。またあまりにもスムーズに
行き過ぎても不自然と感じるでしょう。お年寄りにとって、突然の孫のピンチの話にうろたえるの
が普通でしょうから。
‥‥とにかく犯人は他人の「私」になり切るわけです。お年寄りの相手との「心の交流」に専念
し、すっかり信用(!)されれば詐欺は成功です。
‥‥そしてここで「私」の一つの意味が浮かび上がります。それは「私」を名乗る者は相手に
とって他の誰でもない、特定の「太郎」、「正夫」だということです。つまり「私」は自分一人で
はまだ成り立たず、相手に認められて成り立つという面があるということです。
逆に、私一人で一生懸命「私」が何なのかを知ることの難しさはこのへんにあると言えそうだ
ということです。

2012年2月25日 (土)

「私」‥20

私は少し歳のことを大袈裟に言い過ぎているのかも知れません。
60歳が会社のリタイアーだったので、生活も急変し人生の大転換であったとかってに考えて
いるだけかも知れません。58、59、60、61、の年齢の区切りで60歳のところに人体上の特別
の変化が生じたわけではありません。それは昔から言う還暦であり、現在の多くの会社が退
職年齢と決めている年齢です。それで人生のケジメとして何となく納まりがいい歳だということ
に自分でも感化されてそうだと決めていただけだとも言えます。
私が本当は疲れ切っていてくたばりそうなのに、意地を張っているだけなら無駄なことでしょう。
さっさと隠居生活に入るほうが社会としても平穏であるのは間違いなく、静かにお迎えがくるの
を待てばいいということです。‥‥しかしどうあっても静かにお迎えを待つ心境にはならないとい
うのが正直なところなのです。ただ静かにはなりませんが、今までになかった、「私」とは何で
あるか考えるようにはなったのです(人生の反省を始めたつもりはありません)。
しかし、私と同年齢の者が皆そうかどうかは分かりません。どうも実態は人によりけりであるよ
うに思います。つまり長寿社会の老人の姿は多種多様な姿だということです。そして平均寿命
80歳とは、60歳前後で死ぬ者もいれば90歳代で死ぬ者も多くいるということなのです。
どうも今の社会制度はこの事態に追いついておらず、十把一からげの形のままです。そして
医療保険や年金制度はこれを踏まえなければ上手くいくはずはありません。物理的に人口を
増やせばいいというものでは決してありません。‥‥これは要するに政治の問題なので、ここ
でこれ以上言うのは控えておきますが‥‥。

2012年2月24日 (金)

「私」‥19

一見分かっていると思えることでも聞き方次第で分からなくなるは何故でしょうか。
例えば「今」とよく言いますが、この何気ない「今」にもかなり時間的な幅があります。
「私は今家に帰りました」の瞬間の「今」と、「私は今家を離れています」のしばらく前からの「今」とで
は「今」の意味には大きな差があります。「彼は今病気だ」の「今」と、「彼は今起きた」の「今」とも差
があります。そこで、「今とは何のことですか」と聞かれてすぐに答えられるでしょうか。少し頭をひね
るのではないでしょうか。‥‥「今さらそんなことを聞くなよ」と言いたいくらいではないでしょうか。
しかし、私達は普段はほとんど無意識に、言い間違いをすることもなく、「今」を使い分けています。
もちろん聞き間違いをすることもまずありません。
これは「私」の場合も同じことなのかもしれません。普段の生活では、私は、私の、私に、私も、‥‥
と「私」を連発しています。しかし改まって、特に相手から「あなたの言う私とは何ですか」と突っ込ま
れると返事に窮するのではないでしょうか。それは私が「私」そのものを説明する場面など普通はな
いからです。つまりそんな経験がないからです。従って、自分一人で「私」とは何か考えようとしても
答えが出てこないのは当然なのです。そもそも私が「私」とは何か考えるのは不自然なのだと言え
ます。物心がついてから自分が「私」を考えるなどということはやったことがなく、やる必要もなかった
ことです。もっと言えばそれは基本的に矛盾だと(無意識に)感じていたと言えそうです。
‥‥そして、くどいようですが、何故今、この歳になってこれを考えるようになったのか。これを矛盾と
感じなくなったのか‥‥。

2012年2月22日 (水)

「私」‥18

アリストテレスは「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」と『形而上学』を書き始めます。
私も生まれてからずっと、あれは何だろう、これは何だろう、を繰り返してここに至っています。
そして今、私が一番知りたいのは「私」は何だろうということです。
子供の頃から知りたいことは、親、兄弟、学校の先生、友達、など教えてくれる人には事欠くこと
はありませんでしたし、そのうちに辞典も見るようになり、最近はインターネットという便利なものま
であります。昨年は入学試験を携帯でカンニングする事件が起きてしまいましたが。‥‥
しかし、「私」が何かを知る術はありません。誰も教えられない。私が自分で探るほかないのです。
そして、こんな科学に溢れた世の中でも、それが実は分からないということが無数にあります。
代表的なのは、「生命はどうして生まれたか」「宇宙の果てはあるのか」「時間の初めはあるのか」
から「魂はあるのか」「神はいるのか」などで、これらは昔からある大問題です。
しかしもっと身近なところに分からないことがたくさんあるのです。「私」が分からなければ「あなた」
も分からないはずです。「あの人」も「彼」も「彼ら」も分かりません。「私」との関係で成立っているも
のだと言いますが、「関係」とはそもそも何でしょうか。「関わり」だと言われてもピンときません。
分からないことが無数にあるというのは、一見分かっているようなことでも聞き方次第で分からなく
なるからです。科学の発達で分からないことが少なくなったという気がするのは錯覚なのでしょう。
以前は不明だったことが判明したといっても不明なことはさらに増えていますし、判明も不明が薄ら
いだ程度だったり、逆に新たな誤りであることもあるからです。

2012年2月21日 (火)

「私」‥17

歳のせいでそうなり易くなった、「怒り」というものの心理状態とはどのようなものでしょうか。
それは‥‥けしからん!馬鹿な!何てことだ!そうではない!おかしい!やるのか!‥‥
という言葉で表わされる感情を持つことでしょう。最後の言葉でも分かるように、そのまま喧嘩
になることも少なくありません。そして言うまでもなく「私」の怒りが向けられる「相手」が必ずい
ます。「相手」がいないのに怒ることは通常はありえません。怒りの独り言を発している人をた
まに見かけますがそれは同情以前に滑稽です。もちろん一般世間に対して怒りを向ける、いわ
ゆる「義憤」というものもあります。しかし「義憤」はある面で冷静でなければできないでしょう。
自分(私)と世間との間合いをはかった上での行動で、自分の「怒り」は世間の共感を得るはず
だと考えてのものだからです。その意味で「義憤」はポーズのようなもので、やや質の違う「怒り」
と言えそうです。政治家の見せる「怒り」がこれでしょう。
世間の喝采をねらい「怒り」を意図的にやってみせる能力に長けている人の代表が政治家といっ
ていいでしょう。この人達(非難したいわけではありません)の最大の生き甲斐はこれだと言って
もいいでしょう。
しかし私達の普通の怒りの中にもこのような面が伴なう時があります。自分が怒りながら「怒って
いる自分」を意識する時のことです。その怒りが向けられる相手が複数の場合、例えば部下や生
徒や目下の者の場合です。これは政治家の振る舞いに近いもので、言ってみればパフォーマンス
です。また怒っているうちに途中から冷静になりパフォーマンスに変わっていることも少なくないよ
うに思われます。
純粋の「怒り」の感情は長続きしない、瞬間的なものなのかもしれません。要するに「カッ」とする
のです。矢も楯もたまらず「怒り」を発するのです。そして考えてみれば、この怒ることは異常なこ
とでも何でもなく、生活のなかでの精神的アクセントとでも位置付ければいいものなのでしょう。
では歳をとって怒り易くなったのは何故でしょうか。これは振り出しだったのですが‥‥

2012年2月20日 (月)

「私」‥16

私は最近怒りやすくなったと自分で思います。
家族の者(妻、息子や娘)を叱るだけでなく、道や電車の中で他人を見て腹が立つのです。
もちろん赤の他人を叱ったりはしません。ただ他人の所作に何故か腹を立てるのです。
年寄りが怒りっぽくなるとは聞いていましたが、今の私はまさにこれであろうと思いますす。
他人の、例えば老人の少しのろまな動き(歩き方、階段の上り下り、電車の乗り降り)、若者の
傍若無人の振る舞い(車中の大声、座っての足の投げ出し、座席の幅とり)、コーヒーショップで
のオバサン連の座席確保振りと大声の会話‥‥を目にすると思わず知らずムカつくのです。
くどいようですが、実際に怒りを発したことは(家族に対して以外)今までのところありません。
何故なら他人の所作だけでなく私の怒りの異常さにも気付いているからです。以前はこれらは
気にもならないことだったという記憶が同時にあるからです。しかしこのまま行ったら、本当に赤の
他人に怒りをぶつけてしまうかも知れません。これは十分ありそうです。‥‥この予防策は、私が
なるたけ外出を控えて他人との接触を作らないことだということになります。寂しい話ですがこれが
一番間違いないでしょう。そしてこれに近い話だろうと思いますが、一年前に中学時代からの長年
の友人と電話でのつまらぬいさかいで仲たがいをしてしまいました。実は電話以前に、会っていた
頃から兆候があったのです。ある時飲みながら、何かのことで考え方に齟齬が生じ、以前なら笑っ
て済ますくらいのものを互いに譲らず、「オマエがおかしい」と少しわだかまりを残したまま別れたの
です。この時家に帰ってから思い返すと実にどうでもいいことにこだわったことが分かるのです。それ
から半年程しての電話で、「やはりオマエはおかしい」と言い合い電話を切ったという次第です。
今後仲直りするかどうか分かりませんが、お互いに人間が変わったと感じたのも事実で、これ切りと
なるかもしれないと現在思っているのです。
‥‥さてさて、こんな状態で哲学ができるのでしょうか。逆に、だからこそ哲学なのでしょうか。
哲学の風上にも置けぬ、と天から声が降ってきそうですが‥‥

2012年2月18日 (土)

「私」‥15

「私」を肉体的と精神的とに分けると言いましたが、考えてみればどちらにしろ精神的です。
肉体的にということは体感的に「私」を考えることで、考えることはほかでもない精神的な行為だか
らです。
肉体的には「私」が分からないことがないと言う意味は、痛みで考えれば分かりやすいでしょう。
私の体のどこかを打って痛みを加えた時痛いと感じるのは間違いなく「私」です。傍にいる私以外
の誰かでは絶対にありません。そうして痛みは体感として直接私に「私」を教えてくれます。
前に言いました夢でないか思わず頬をつねるというのも同じことです。
痛覚だけでなく、視覚、聴覚、味覚、嗅覚といった五感は教え方は異なりますがみな同じでしょう。
五感は私が「私」を確認するセンサーということです。このことによって私は外部世界を知ることが
できます。自分の回りにあるものが食物か、障害物か、敵か味方か、何であるかを知るのです。
このことによって私は「私」の生命を維持していると言えます。つまり生命に直結する本能です。
知性に縁遠いとされる動物、昆虫、原生動物、細菌、植物、おそらくウィルスも、結局のところ
生命体すべてはこのセンサー機能を具えていることによって生きていることができ、種を存続させ
ていると言っていいのでしょう。
こう言いますと、精神的に私が「私」を考えようとしてこれが分からないというのは何か贅沢をして
いるように思えるかもしれません。そんな暇があったらもっと「私」の生きることに役立つ本能的、
肉体的なことをしているほうがいいのにと‥‥。
しかし私は望んでこんなことをするようになったのではありません。いつのまにかこうなったのです。
歳をとるにつれて、少しずつ活発さが失われ気が付いたらこうなったのです。何故なのか。‥‥

2012年2月16日 (木)

「私」‥14

「私」が分からないということは、やはり精神的なものなのでしょう。
肉体的に「私」が分からない、つまり自分の体が自分の体と感じられなかったら、それは純粋
の病気の症状なのですぐに医者に相談しなければなりません。階段から落ちたり、自動車に
当たったり、駅のホームから線路に落ちたりと、それは自殺にも見え、それこそ「死」に直結
する状態であると言えるからです。
そして、精神的に「私」が分からないことを悩んではいけないでしょう。本当に悩んだらそれは
ノイローゼであり、上で述べました病気と同じことになります。むしろ「私」が分からないことを
楽しむくらいがいいのです。‥‥「ほほう、不思議なことなんだなー」とか「これも人生の面白
さだな」とかです。あるいは、「この心境は誰かに教えてやりたいな」という感じです。私もこの
感じです。
私は哲学者ではありませんが、哲学者が書いた本を読むと彼らが哲学を楽しんでいるのが分
かります。いくら苦しそうに書いていても、いや、苦しそうに書けば書くほど楽しんでいることが
分かります。かけがえのない楽しさを発見して気も狂わんばかりだといっても大袈裟ではない
でしょう。怒るかもしれませんが、宗教の教祖の心理状態に近いと言ってもいいでしょう。
あるいはほかのものに例えますと、スポーツの中でも苛烈さで最右翼と言えそうなボクシング
の世界で、ボクサーは殴られることがうれしいそうです(直接聞きました)。はた目には恐ろしい
目にあっているとしか見えませんが、彼らは殴られてうれしく、もちろん殴るのもうれしいのです。
この気質に哲学者の気質はかなり近いと言ってよさそうです。‥‥
え?あなたもその気(け)がありそうだって?
イヤー、ハハハ、とてもそこまで行ってませんよ、残念ながら!

「私」‥13

バレンタインの閑話休題は終わって、また「私」に戻ります。
ここで「私」のことを肉体的に考えてみます。
「私」は頭のてっぺんから足のつま先までの私の体の中にあるものでしょうか。
私の全身は一枚の(と言うのが正確かどうか分かりませんが)皮膚で覆われていて、
その内側に「私」はみっしりと詰まった形で存在しているのでしょうか。
確かに「私」の内と外を皮膚が分けているとは言えるような気がします。ただ口、胃腸、
肺の中は内側とも外側とも言えます。体の中にある体の外側とも言えるからですが、これ
はまあいいでしょう。
私が生命体であるという意味では、この皮膚の内側が「私」であり、外側は外部世界です。
そうすると、この皮膚の内側に一分の隙もなく「私」がいるのでしょうか。
そうだと言ってよさそうな気もしますが、自分の人差し指を見てこの中に「私」がいると考え
ようとすると何か違うような気がします。叩いたりつねったりすると痛みを感じる点では間違
いなく「私」ですが極端な話、事故で指が切断され失われても普通は「私」が死ぬことはあ
りません。つまり指の先には「私」はいないと言えそうです。しかし、指の切断を止血せず
放置すれば失血死するでしょう。やはり命に直接つながっている点で指の先と言えどもそ
れは間違いなく「私」なのでしょう。
従って肉体的に考える場合は、「私」に関してはあまり疑問が生じることはないと言っても
いいかもしれません。肉体的とは本能的意味にも通じる側面がありそうですから、こどもが
精神的に幼い分、おとなに比べてより肉体的で本能に近い存在であり、「私」に疑問など
持たないと前に言ったことともつじつまが合うように思います。


2012年2月13日 (月)

「私」‥12

またバレンタインデーがやって来ます。
私にはもうチョコレートのやり取りの縁はなくなりましたので、昔の思い出話を一つ。
私の若い頃は、バレンタインデーなどはまだ意識に登らず、昭和48年にサラリーマンに
なってからこれを知りました。つまり翌年の2月のこの日、昼休みで30分ほど席を空けて
戻ってみたら私の職場机の上に色紙に包まれたチョコレートが5,6個置かれていました。
事務所全体は500人程でも、私の職場は小さく10人位のもので、若い男は私だけでした。
たしか上司の課長に一言、二言冷かされたのを憶えています。
女性が思いを託して男に贈るものだという知識はすでにありましたので、私はハハーン
これがそうかとドキドキしながら手にとって見た後、多分簡単なレター位は入っているの
だろうと、一つずつ開けながらレターを探しました。しかしそんなものはなく、銀紙まで開け
て裏まで見ても何もなかったのでひどくガッカリしました。では、一番きれいな包み紙のも
のが、私への思いが一番こめられたチョコレートかと、あらためて包み紙を調べると、そこ
に生保のオバちゃんの名詞が入っていたのに気がつき、もう一度ガッカリしました。後で
聞いたところでは、職場の女子社員達(3,4人)、よその職場の女子社員達、‥‥そして
生保のオバちゃんからのものだと判明しました。
次の年から私がドキドキすることはなくなり、相変わらず机に積まれたチョコレートを口いっ
ぱい頬張るだけとなりました。‥‥やがていつからか義理チョコという言葉が生まれたの
だと記憶しています。

2012年2月12日 (日)

「私」‥11

私が「私」であること、「私」の同一性を支えてくれるものが何かあるでしょうか。
すぐに言われそうなのが「魂」というものです。あるいは「神」です。
人は昔から、自分が死んでもこの世界に関わり続けたい、どこかに存在し続けたいと
願ってきました。その答えが「魂」でこれは永遠不滅のものという考えです。
そしてそれを采配する(指揮する)ものとして「神」がいるということです。
私が思うに、これは「信じる」か「信じない」かの問題です。つまり宗教の問題です。
そしてこの答えを100%了解できる人(信じることができる人)はもはや「私」の同一性
に迷うことはないでしょう。「魂」の存在ですべて筋が通るからです。幸せです。
しかしこれを了解できない人、私もそれですが、筋の通った柱がないため迷い続ける
ことになります。
そして段々と本能から遠ざかり、「私」を見失いつつ、確実に「死」に近付いていきます。
もちろん死んだら、「私」はない、それを問う「自分」もない、回りも何も見えない、見る
こともない、すべてない、‥‥nothing‥‥無‥です。
そしてそれでいいと思います。ほかに考えようがありません。
こう言ったからとて、私は生活をやめるわけではありません。
今もご飯を食べたところです。好きな納豆ごはんで大盛り茶碗2杯も。うまかった。‥‥
ひょっとすると人生に鈍感になってきているのかもしれません。いよいよ恍惚の人に‥。
それならそれでいいと思います。ほかに考えようがありません。

「私」‥10

前に「私」の認識は本能的なものかもしれないと言いましたが、うちの犬で実験ができないか
試してみました。そろそろ8歳になるパグ犬(メス)ですが、時々毛並みを整えるためコロコロ
(カーペットクリーナー)で背中や腹回りの毛を処理してやります。つまり脱毛するわけです。
毛並みを整えるというのは人間から見てのことで、犬にとっては自然に生え変わるのが一番
いいのでしょう。それだと居間中が犬の毛だらけになるので、先回りして(無理やり)脱毛して
やるのです。脱毛の間、犬は観念したようにジッとしてされるがままになっています。しかし
脱毛が終わって解放され、コロコロに付着した大量の自分の毛を見ると猛烈な抗議の声で
吠え立てます。‥‥「ワーン!あたいの毛なのになんてことをするんだ、キャンキャン!!」と私に
は聞こえます。つまり犬にとって「私」の毛であることを知っているのです。犬は抜かれた大量
の毛が自分と一心同体のものであることを本能的に理解していて、それが人間に奪われたと
知って怒ったのです。
私はうちの犬の反応に少し感心したものです。犬が「私」感覚をはっきり見せたことにです。
しかしこれは犬が意志を見せたというより、本能的振る舞いを示したという方が正しいでしょう。
例えば毛ではなく自分が産んだ子犬であれば、この本能的振る舞いはよりはっきりするでしょう。
そしてやや飛躍して言えば、これは生き物全部に共通で、「私」(ego)とは本能の世界に直接的
につながるもの、端的に言えば「私」=本能と言ってもいいのではないかということです。
すると、これまで言ってきました私の「私」が分からない状態とは、本能から遠ざかった状態、
あるいは本能を見失った状態なのかもしれません。
‥‥それは無意識のうちに「死」の世界へ近付いているのかもしれません。

2012年2月10日 (金)

「私」‥9

隔日のアルバイトに朝行く途中に小、中、高校があるため、この順に登校する生徒に出会います。
そしてどうも子供の顔に窺える自分への信頼度(「私」の確信度)の濃さもこの順のようです。
小学生は楽しい(つまらない)先生の授業、昼食、からかう(からかわれる)相手、のことなどを頭
に浮かべながらも、「自分」が分からないなどとはよもや考えてはいないようです。
中学生は英語や数学、国語にやや重荷感があるものの、早くも放課後のクラブや悪だくみを楽し
みにしており、やはり「自分」に対する疑問とは無縁のようです。
高校生(進学校)は学業のことが頭の80~90%を占めているらしい。しかしよく見ると、意志、自信
から不安、無表情、中途半端まで色々なものが表情にこもっているのです。つまり大人っぽくなっ
ている分、「私」の確信度が揺らぎ始めているように見えます。
これらはあくまでも私が勝手にそう思っているだけで、本当にそうかどうかは分かりません。
小、中、高生の誰彼に聞けばいいのかもしれませんが、出会いがしらにいきなり「君は自分が分
かっているか?」などと声をかけたりしたら、変なおじさんがいる、あぶない人だ、変質者だ、と噂
が立つことになるでしょうからこれは出来ない。‥‥
結局、色々な子供とすれ違いながら、「君ら、夢のある人生を歩もうとしてるか?」と思うだけです。

2012年2月 9日 (木)

「私」‥8

「私」の同一性とは、私であれば、60年間私は「私」であったという確信が持てることです。
すべての人はこれを持っているのが普通でしょう。私も持っています。
まさか40年以前の私は「私」であったという確信がないとは思いません。
もちろん、ある時に精神的あるいは物理的に強いショックを受けて記憶喪失となった人は、その時以前
の記憶がなければ(その時以前については)「私」であったという確信はないことになりましょう。
しかし、ここではそのようなケースは病理学的例外としておきます。
そうではなく普通なら、私は生まれてからずっと「私」であったという感覚を持っている、それを当たり前
と考える、そこに疑いの入る余地もなくそう確信している、と言っていいように思う。何故なのか。‥‥
ここで一転、自分の「死」のことを考えてみます。
「死」とは60年間も途切れることなく続いてきた私が「私」でなくなることです。
この世の何処にも「私」が見当たらなくなる。そう思うことすらなくなる。存在しない。‥ということです。
自我が芽生えたこどもに「死」のことを言い聞かせると必ず泣き出すものです。
こどもにとって「自分」を認識した途端の「自分」の「死」の想像ほど理不尽なものはないからでしょう。
こどもは純粋に(本能的に)「私」が何であるかを知っていると言えるかもしれません。
そうすると、おとなである私が「私」は何であるか分からないとはどういうことになるのでしょうか。
こどもより長く生きている分、私の中に「私」が溜まりすぎて逆に「私」を見失いはじめたのでしょうか。
なまじ「私」の記憶を溜めてきたがために、本当に肝心なことを見失なってしまっているのでしょうか。
そうだとすると、長生きは感心すればいいというものでもなくなりますね。‥‥?

2012年2月 7日 (火)

「私」‥7

今の「私」は60年間同じ「私」でしょうか。
今日の「私」は昨日の「私」、昨年の「私」、5年前、10年前、‥‥60年前の「私」なのか。
常識に基づけば、そうですよず~っと変わらない「私」ですよ、ということになります。
しかし、よく考えると今の「私」と、昨日の「私」、昨年の「私」、‥‥が同じであるはずがない。
人間がまったく変化(成長か衰退)しないなら同じ「私」でしょうが、時々刻々変化しています。
つまり時間と共に私は次々と違う「私」に変化しているというのが真実でしょう。
それなのに何故それは同じ「私」と言っているのでしょうか。
同じという記憶を持っているのでしょうか。記憶があるから同じなのでしょうか。
しかし記憶の中の「同じ」は証明できるでしょうか。‥‥そう言われると怪しくなります。
他人が言うからでしょうか。×丁目×番地の×田×郎さん、あなたのことですよ、と。
でも60年の間、私と一緒にいた他人などどこにもいません。
「私」の同じを一番保証してくれそうな親は大分前にいなくなっています。
‥‥結局「私」の同一性を決めているのは自分(私)以外にいません。
そのあげく、実に奇妙な結論が得られます。
「私」が何かは分からない私が「私」の同一性を決めているということです。

2012年2月 1日 (水)

「私」‥6

よく夢と現実の区別が出来なくなるというようなことを言います。
ロマンチックすぎる性格の人のことを言う場合もあれば、本当に区別出来ない人を言う
場合もある。
後の場合は重篤な病状や臨終間際の人の場合がそうでしょうが、普通の(健常な)人
でも稀にそれに近い心理状態になることがあります。
強いショックを受けた時など(嬉しい場合も、悲しい場合も)、瞬間的に現実離れした心
境になるでしょう。
思わずほおをつねるという言い方もあります。
それが現実であって欲しい(嬉しい)場合もあれば、夢であって欲しい(悲しい)場合も
ある。
‥‥そして「私」が分からないとは、この夢と現実の区別が出来ないことに似ていると
思われます。同じということではなく、似ているということです。
普通の生活において私達は夢と現実は何の苦もなく区別しています。区別する方法を
意識することすらありません。それが事実だとしか言う以外にありません。何かの都度
その区別に悩んでいたら私達の生活など成り立たないでしょう。
「私」が分からないことも普通は意識していません。私は、私は、の「私」行動は日常に
おいて反射的にやっています。
しかし改めて「私」とは何か考えてみた時それが分からないものだと気が付くのです。
この二つの不分明(夢・現実区別と「私」区別の)は思いがけず、不意に起る点が
似ていると思うのです。


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