« 「私」‥23 | トップページ | 「私」‥25 »

2012年3月 1日 (木)

「私」‥24

道徳の定義の難しさを踏まえた上で、「相手の立場になって考えること」(感情移入)の
道徳性を考えて見ましょう。
感情移入とは文字通りに言えば、相手の身体に入り込みその人間の知覚を得ることに
よって相手の感情(気持)を知ることです。しかし誰でも分かりますようにこんなことは不
可能です(「私」‥3で言ったことと同じです)。
それにもかかわらず何故可能であるかのように感情移入と言うのでしょうか。私はそこに
目に見えない優劣関係を前提した考え方があるのではないかと思います。つまり感情移
入する側が相手を見下ろしている形がそこにあるのであって、相手の気持という名前の
自分の考えの押し付け、言ってみれば親切の押し売りであろうということです。
いったい他人(相手)の考えを完全に知るなどというのは不可能なことであり、せいぜい
予想(類推)することまでです。いくら相手に「同感する」と言ったところで本当に同じ感情
を持つことなどできないのです。相手の痛みを共有すると言ったところで同じ痛みである
かどうか確認する術(すべ)はありません。要するに感情移入する側の一方的な、いわば
勝手な思い込みだということです。
もちろん、親切は相手には絶対伝わらないと言うつもりはありません。親切は一度ならず
とも繰り返し行なえば最後には必ず相手に伝わるものでしょう。しかし親切にすることが
道徳的であるという保証はどこにもありません。「親切が仇(あだ)になる」のもそう稀なこ
とではないのが現実でしょう。
それに加えて「道徳」そのものの解明の困難さがあるのです。
もし真に普遍的な「道徳」というものが見出されたら人類にとってこれ以上の幸福はない
でしょう。世界平和が実現し「戦争」は死語となるはずです。人間は有史以来これを追及
し続けてきたと言え、恐らく永遠に追及し続けるのでしょう。
‥‥こういうことであれば、「相手の立場になって考えること」(感情移入)が道徳だなど
とは小手先の智恵にしか見えないと言わざるを得ませんね。

« 「私」‥23 | トップページ | 「私」‥25 »

心と体」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1627554/44318860

この記事へのトラックバック一覧です: 「私」‥24:

« 「私」‥23 | トップページ | 「私」‥25 »