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2012年3月11日 (日)

「私」‥25

以前述べましたように視・聴・嗅・味・触の肉体的な五感は「私」の外部世界を知覚するセン
サーです。従って五感には「私」の内部世界と言える「私」を知覚する機能はないと言ってい
いと思います。五感センサーが外部世界を知覚する主体こそが「私」であると言えます。つま
り五感を動員して外部世界を把握しようとする主人公が「私」なのです。いわば外部世界を
認識すること、それが即ち「私」であるということです。
従って、私が「私」を探るには肉体的な五感に頼ることはできず、それはまさに精神作用であ
る思考によるほかはないということになります。私が「私」を知る方法は「私」をとことん考える
こと以外にありません。‥‥
私が「私」であることを知っているということを端的に述べた哲学者はデカルトです。
有名な「私は思う、ゆえに私は存在する」(Cogito ergo sum. コギト エルゴ スム)という
言葉です。デカルトは「私」とは今現に考えている私(自分)のことであると言っているのです。
それが分かったと言っています。つまり「私」の内容ではなく「私」の質が分かった、それは考
えている主体なのだと言っているのです。
‥‥私の見ているものはすべて夢・幻かもしれないと思う。しかしそう思っている私まで夢・
幻と思うことはできない。現にそう思って今ここにいるのが私であることは疑いようがないのだ
から‥‥というわけです。
自分というものの認識に自分以外のものを介在させないというデカルトのこの宣言は非常に
大きな意義がありました。これは哲学におけるパラダイム転換であったに違いありません。
何故ならこれまでの哲学においては、まずこの世界は神の創造物であるということから始め
るのが常であるため、やはり神に創られた自分というものの認識にも必ず神を介在させ、自
分が自分の内面を直接考察したことを真理とすることが方法として阻まれていたからです。
17世紀頃はまだ宗教界(キリスト教)の力は強大で思想界もいわば「神」の支配下に置かれ
ていたのです。
皮肉なこととも言え興味を感じるのは、デカルトは「神」の存在証明までやっておきながら、
自己認識は自己だけで完結する(真理は思考により得られる)と、当時の思想界を統べる
神の不文律に風穴を開けてしまったということです。
結果的にはこれにより近代哲学の夜明けがもたらされたと言えるのです。

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