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2012年3月31日 (土)

「言葉」‥7

前回に言葉の成立プロセスを想像したことを踏まえて、思考と言葉の関係について考えてみ
ましょう。少し面倒くさいかもしれませんが。
前に(「言葉」‥1)で述べましたように、言葉は「ことがらそのもの」であることはあり得ず、そ
れを音や字として指し示す(意味する)ことが本質的な役割であると言えます。別の言い方を
すれば言葉とは本質的に「ことがらを言葉で喩えること」であるということになります。
そうであれば、言葉による思考とは「ことがらを言葉で喩えること」を重ねていくこと、あるいは
主語―述語―目的語‥‥と(喩え)言葉を連ねることだと言えます。
例えば「私は公園の桜を見る」という思考(これも思考です)を分解すると、「私は(自分の意
識を喩える名:主語)―公園の桜を(目に写るものを喩える名:目的語)―見る(自分の動作
を喩える名:述語)。」‥‥この一連の言葉(ことがらの喩えの連なり)が思考です。こうなると
もう思考とは言葉そのものだ(思考=言葉)と言ってもよさそうです。
一方、思考は言葉なしでできるでしょうか。観念や概念といったものは言葉と区別されたもの
として存在しているのでしょうか。
そもそも「思考は言葉なしでできるでしょうか」は言葉です。この言葉なしで「 」内の判断(思
考)ができるでしょうか。文字通り「 」を判断しろと言われても何もできるはずはありません。
やはり思考は言葉と共に始まるまるもののようです。
‥‥しかし「私は公園の桜を見る」を漠然と(思考することなく)心に浮かべることができそうに
感じるかもしれません。だがこの場合でも、漠然と心に浮かべたことが何であるかは、「公園」、
「桜」、と言葉を当てなければ分からないままです。それを絵に喩えれば、心に浮かべたことを
言葉で塗りつぶさなければ何の絵なのか、絵であるかどうかも分かりません。どんな想像でも
言葉の裏付けがなければ想像ですらないということになります。
いったい何故こうなるのかといえば、それは前にも述べましたように、言葉が思考のタイプ(型)
を決めるから(言葉は思考の素材であるから)というのがその理由であるのは明らかでしょう。
つまり、思考・観念・概念というものは本質的に言葉であるため、その限りでは言葉なしでそれ
が存在・成立するはずがないという堂々巡り(トートロジー)のような結論になるのです。
あのデカルトの「私は考える、ゆえに私は存在する」もこの後に、「と私は言葉で考えることがで
きる」と続ければより正確な真理を表わすことになるのでしょうが、すぐに「ゆえに私は存在する」
と続けば完全に堂々巡りに陥り、上の結論の喩えとなってしまうでしょう。

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