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2012年3月

2012年3月31日 (土)

「言葉」‥7

前回に言葉の成立プロセスを想像したことを踏まえて、思考と言葉の関係について考えてみ
ましょう。少し面倒くさいかもしれませんが。
前に(「言葉」‥1)で述べましたように、言葉は「ことがらそのもの」であることはあり得ず、そ
れを音や字として指し示す(意味する)ことが本質的な役割であると言えます。別の言い方を
すれば言葉とは本質的に「ことがらを言葉で喩えること」であるということになります。
そうであれば、言葉による思考とは「ことがらを言葉で喩えること」を重ねていくこと、あるいは
主語―述語―目的語‥‥と(喩え)言葉を連ねることだと言えます。
例えば「私は公園の桜を見る」という思考(これも思考です)を分解すると、「私は(自分の意
識を喩える名:主語)―公園の桜を(目に写るものを喩える名:目的語)―見る(自分の動作
を喩える名:述語)。」‥‥この一連の言葉(ことがらの喩えの連なり)が思考です。こうなると
もう思考とは言葉そのものだ(思考=言葉)と言ってもよさそうです。
一方、思考は言葉なしでできるでしょうか。観念や概念といったものは言葉と区別されたもの
として存在しているのでしょうか。
そもそも「思考は言葉なしでできるでしょうか」は言葉です。この言葉なしで「 」内の判断(思
考)ができるでしょうか。文字通り「 」を判断しろと言われても何もできるはずはありません。
やはり思考は言葉と共に始まるまるもののようです。
‥‥しかし「私は公園の桜を見る」を漠然と(思考することなく)心に浮かべることができそうに
感じるかもしれません。だがこの場合でも、漠然と心に浮かべたことが何であるかは、「公園」、
「桜」、と言葉を当てなければ分からないままです。それを絵に喩えれば、心に浮かべたことを
言葉で塗りつぶさなければ何の絵なのか、絵であるかどうかも分かりません。どんな想像でも
言葉の裏付けがなければ想像ですらないということになります。
いったい何故こうなるのかといえば、それは前にも述べましたように、言葉が思考のタイプ(型)
を決めるから(言葉は思考の素材であるから)というのがその理由であるのは明らかでしょう。
つまり、思考・観念・概念というものは本質的に言葉であるため、その限りでは言葉なしでそれ
が存在・成立するはずがないという堂々巡り(トートロジー)のような結論になるのです。
あのデカルトの「私は考える、ゆえに私は存在する」もこの後に、「と私は言葉で考えることがで
きる」と続ければより正確な真理を表わすことになるのでしょうが、すぐに「ゆえに私は存在する」
と続けば完全に堂々巡りに陥り、上の結論の喩えとなってしまうでしょう。

2012年3月29日 (木)

「言葉」‥6

ここで言葉の誕生について想像してみましょう。前に述べました通り、人間の言葉は文字
以前に長い間音声だけだったのですが現代にその音声としての言葉は残っていません。
当然のことですが音は字と違って使われた痕跡が残りません。従って音声言葉の誕生経
緯というものを今考えるには思考テストのようなやり方で想像するしか方法がありません。
つまり言葉がどのようにして生まれ、使われるようになっていったかを考えるには、その誕
生プロセスを事実としてありそうなことを想像で構築する方法しかないのです。
これはそう難しいことではないのでここで少しやってみますと、例えば次のように声を使う
場面をありそうなものとして列挙することができるでしょう。
① 自分の家族・仲間がはぐれたり、迷ったりしないように互いに声を発して自分の所在を
  伝える。
② 食料となる果実等の存在を伝えようと家族・仲間に声で知らせる。
③ 獲物となる動物を声を出して追い立てる。
④ 敵(野獣、他部族の人間)を威嚇するために叫び声を発する。
⑤ 嵐、洪水など自然災害の危険が迫った時に警戒や避難を促す声を発する。
⑥ 求愛行動として声を使う(歌と言えるようなものもあったかもしれない)。
⑦ 家族・仲間の死に際して声を上げて悲しむ。
⑧ 喜ばしいことや楽しいことがあった時に声を発して喜んだり笑ったりする。
‥‥‥‥‥‥‥
この他にも声を発するような場面が無数にあったのでしょうが、これらはみな想像を超え
るほど長い年数・世代にわたった経験の積み重ねによって、身の回りの特定のものごと
に特定の音声を対応させる習慣が徐々に徐々に形成されていったと考えられます。
そして一定の人間集団(集落や部族)内でものごとを指す(意味する)音声が共有され、
使われるようになってきた時、いつの間にかそれは言葉が成立していたことであったとい
うことなのでしょう。
‥‥このプロセスにおいて生理学的にも重要な点は声の質(声色、声音)の使い分けで
あり、これによって自分の喜怒哀楽を相手に伝えることができ、それには口腔全体(喉、
唇、歯、舌、顎、頬、鼻)が使われ、さらに目の表情をも伴いながらこの動作が行なわれ
たということです。そしてこの発声伝達方法が(多少の変化はあっても)基本的には今に
引き継がれて使われているのです。
さらに音声言葉というものが、ある時を境目に劇的に誕生し、一挙に人間社会に広まった
などとはまったく考えられないと言っていいと思います。逆に音声言葉の基盤が長い期間
をかけて一定地域の社会に形成されていれば、そこへある時期に導入された文字言葉は
音声言葉に比べればはるかに短期間に広まることが可能だったと言えるのではないでしょ
うか。

2012年3月27日 (火)

「言葉」‥5

森鴎外のエッセーに「当流比較言語学」というのがあり、そこでこんなことを言ってい
ます。意外に知らない人が多いのですが。
「或る国民には或る詞(ことば)が欠けている。何故欠けているかと思って、よくよく考
えて見ると、それは或る感情が欠けているからである。‥‥」と続けて、ドイツ語と日
本語を比べ、前者にあって後者にない典型的な言葉を三つ例示するのです。そのう
ちの一つはsittliche Entrüstung:道徳的憤怒、つまり「義憤」です。
日本では義憤を、自分には直接関係ないことでも道に外れたことであればそれに対
して怒りを発すること(いわば正義の味方を演じること)で、立派な態度であるとしてい
るのですが、ドイツでは義憤には嘲(あざけ)る意味が込められているというのです。
自分の身の程を棚上げにして義憤を平気で口にするのは気恥ずかしいことだというわ
けです。
そして日本には義憤を嘲る意味の言葉がない、それは日本人に義憤が気恥ずかしい
という感情が欠けているからだと言っているのです。
今で言えば「みのもんたの朝ズバッ!」などが典型的なものでしょうが、この種の「け
しからん!」を言い立てるものは昔も今も日本では溢れるほど存在しています。一流
新聞の社説、テレビのニュースキャスターや評論家、それに何と言っても政治家(与
野党を問わず)でしょう。夜の酒場ではサラリーマンの大言壮語があちこちで飛び交
っています。これらはみな気恥ずかしさなど微塵もない「義憤」でしょう。
私はこの鴎外の文章から啓発され唸ってしまったことは、義憤感情の所在の差もさる
ことながら、別々の国民の間における感情(観念)の所在の差に由来する言葉の所在
の差ということです。鴎外はいずれもドイツ語にあって日本語にない言葉の例を出して
いるのですが、これをその概念がドイツにはあって日本にはない、これは思想の貧弱
な兆候なのであろうとしてるのです。
これは鴎外が100年前に述べていた西欧と日本の比較文化論だったのですが、その
後の日本人の思想はさらに貧弱になったのか、あるいは内面的な深みを見出す方向
へ変わってきているのか。‥‥
私はどちらであるとも言えそうな気がします。そして現在の日本人は実際にどう感じて
いる方が多いか興味のあるところです。

2012年3月26日 (月)

「言葉」‥4

「言葉」の定義を、生物種の個体間における感覚受容器官を使った情報の伝達動作と
すれば、人間だけが言葉を持つとは言えないことは明らかです。哺乳類や鳥類の鳴き
声、セミやコオロギなど昆虫の鳴き声も言葉ですし、ある種の昆虫がフェロモン(臭い)
や紫外線(反射光)を触覚や複眼で捉えることも言葉の活動に該当し、植物の花を経
由した受粉活動も広い意味では言葉でしょうし、結局のところすべての生物が何らか
の形の言葉機能を保有していると言っていいでしょう。それがなければその生物種の
存続が不可能であるとも言えます。
「言葉」が何であるか考える上で、生物の同一種の固体間での情報伝達機能の点に
こだわる限りそう言う以外にないのです。それは最終的にはDNA遺伝子の情報伝達
にまで直結し得るものと言っていいかもしれません。
では人間の言葉と他のすべての生物種の言葉とを決定的に分ける点は何でしょうか。
それは人間の言葉だけは(特に文字言葉は)生得的(先天的)に具わっていたのでは
なく人間が創り出したもので、それを改造・改変できる点だと言えます。
言い換えれば、人間の言葉だけは本能に制約されないものになっているのです。他の
あらゆる生物種が使う言葉はすべて本能に基づくが故に本能に制約され、自分で言葉
を創り変えることなど出来ず、いわば言葉自体が本能のようなものです。人間も単に発
声(発音)するだけならそれは本能でしょうが、自らの声を細かく規則づけ、区分けし、
記号化し、一つひとつに意味を与えました。つまり「言葉」の創造です。身の回りのもの
ごとに対して音声記号を付したのです。
やま(山)、かわ(川)、ひ(陽)、ひ(火)、あめ(雨)、き(木)、くさ(草)、つち(土)、みず
(水)、いぬ(犬)、しか(鹿)、さる(猿)、うお(魚)、とり(鳥)、て(手)、あし(足)、あたま
(頭)、あるく(歩く)、はしる(走る)、はなす(話す)、おこる(怒る)、よろこぶ(喜ぶ)、し
ぬ(死ぬ)‥‥など身の回り全般のことに対し長い時間をかけながら名辞をつけていっ
たのです。ほかでもなくこれは人間の知性のなせる技です。
生物学的には知性活動も大脳の生理的反応と見れば本能の範疇のものかも分かりま
せんが、ここでは常識に従って知性を本能の対極にあるものと位置づけておきます。
知性は生得的なものではなく、後天的に学習により具わるものと考えるのです(しかし
学習能力は生得的なものかもしれませんが)。実際上は人間は知性によって言葉を創
造したのか、言葉の使用が知性を発達させたのかは解明できることではないでしょう。

2012年3月24日 (土)

「言葉」‥3

漢字の大御所の白川静がどこかに書いていましたが、漢字の中にはあるものを指す言葉
を発音した時の口の形からできたものもあるとのことです。口の字は口の形そのもので典
型的な象形文字と言えるでしょうが、音声言語を発音した時の口(歯や舌を含む)の形が
文字になるとはまさに音声言語から文字言語が生まれる直接事例と言っていいでしょう。
だいぶ以前に読んだことでその本も紛失して、それがどの漢字だったか忘れましたが、そ
のことが非常に意表を突くような面白さを感じたので私はその理屈だけ覚えているのです。
しかしハングル文字はほとんどこの理屈で出来上がったものらしい。これにはさらに驚きで
すが。‥‥
日本はよく言われているように、音声言葉はありましたが文字言葉は生まれず、中国から
漢字を取り入れてようやく日本でも文字が使われるようになりました。紀元4世紀頃のこと
だとされています。そして中国の漢字体は極めて複雑かつ煩雑なので簡略できるものは
どんどん簡略化して日本語の漢字を作り替えていきました。さらにそれだけでなく一挙に
漢字を簡略した表音文字として仮名文字(平仮名、片仮名)を作りました。そしてこのこと
が文字言葉としての日本語を飛躍的に日本人にポピュラーなものに広め、日本の文明・
文化を発展させたことは誰もが認めることでしょう。良くも悪くも喧伝されている日本が世
界に誇る技術改良特質のルーツがここにあるといっても過言ではないかもしれません。
この言語改造の動きは現在も留まることなく続いており、数字記号、和製英語は序の口
で、概念の面でもコンピューター言語やあらゆる分野の外来言語が取り入れられ、日本
語化しています。最近よく聞く話に、日本語が英語化して日本が英語圏に取り込まれよう
としていて由々しいことだというのがありますが、私が思うにそんなことはまったく心配ご
無用で、日本語が時代の流れに機敏に対応しているだけでしょう。時代の変遷が科学的
にも文化的にも非常に早まってきているのは世界共通ですから、日本語の変わり身の速
さも当然起こっているのだと考えるのがいいでしょう。世の中で起きていること、世界の現
象に対して、もし私達が(つまり日本語で)理解できなくなったらその方が一大事で、その
時は本気で日本語を捨てなければならないでしょう。

2012年3月23日 (金)

「言葉」‥2

人間は言葉を発明したのですが、言葉が文字化されるまで非常に長い時間がかかった
と言われています。つまりかなり長い期間人間の社会は音声だけ(身振りも含む)の言
葉の使用が続いていたということです。
そのような時代の人間の能力は体力だけでなく、言語能力(即ち聴覚能力と発声能力)
によって決められたのではないでしょうか。これは多くの種類の鳥類で、雄の雌に対する
能力(性的魅力)が囀(さえず)る能力(大きく美しい声で歌う能力)で決まっていることに
類似しているかもしれません(面白いことに、人間が聞いた囀りの評価と鳥の間で見られ
る評価とはほぼ一致するそうです)。また現在でもプロ歌手の評価は声の美しさ、音域の
豊かさが基本であると言えます(しかし今はテレビ等の影響で本来音声能力とは関係な
い容姿が人気を左右していますが)。
そして当然のことながら音声だけの言葉社会は物理的にもそれが伝播する範囲は限ら
れるため、広がりのない狭い地域内で展開することになりがちで、その結果として地域間
での音声言語の差異が生じることは避けられなかったはずです(今でも日本の中でその
名残りとして全国各地の方言があります)。従って、国家と呼ばれる規模の文明が形成
されるためには文字の発明を待たなければならなかったということになりましょう。現在に
おいて世界の大規模な文明遺跡として残っているものに共通する点としてどの遺跡も絵
文字(象形文字)の存在が示されていることがその証(あかし)と言っていいでしょう。
しかし音声だけの言葉の世界とはいえ、そこに思考のタイプ(型)があったのは間違いあ
りません。異性間や家族間、一族間で意思を伝達し、食物の確保のための狩猟や採取の
相談は音声言語でなされたはずです。その音声言語の使用とは思考することを意味する
のは言うまでもありません。そこで考案された生活技術や使われた道具の技術、あるいは
祭り・埋葬等の風習といった文化的なものまですべてが音声言語(つまり口伝)によって
代々伝えられていったわけです。
そして音声言語そのものがいかに高度なものであったかの一端は、現代に口伝伝承で残
る世界の多様な民族音楽の質(情緒性、楽律性)を見れば分かると言っていいでしょう。
そして長く続いた音声言語の基盤の上に文字言語が築かれたのです。この順序は決して
逆ではないことを忘れてはならないでしょう。

2012年3月22日 (木)

「言葉」‥1

言葉とは、ものごとの意味を表す発音や字のことです。従って言葉に関わる五感(能力)
は主に聴覚と視覚ですが、発音能力も必要なので声帯、口唇、舌という器官も加わって
のものと言えます。人間は幼児期から大人(親)によってまず摂食動作の中で教えられ
ながら言葉を習得していきます。マンマやオッパイなどから覚えはじめるでしょうが、意思
表示という意味では泣き声も幼児にとっては言葉と言えるでしょう。
そして発育しながら五感を通じて知覚される自分の回りのものごとを指す(意味する)言
葉をやはり大人に教えられながら発音できるようになります。親であった人は誰でも知って
いますが、幼児は言葉を覚えるときに教え手の声と口に強く関心を寄せます。そうしながら、
どういう音がどういう口の形から出るのか、そしてそれが何を指すのかを何遍もの反復動作
によって知っていきます。つまり言葉を習得していきます。
そして幼児のこの発育過程、この体験の中にこそ人間の言葉による思考のタイプ(型)が
納まっているといっていいでしょう。思考のタイプはこれ以下でもこれ以上でもなくこれによ
って決まっていくと言っていいのでしょう。まだ数学や抽象的な概念は身に付いていないと
は言え、将来そのようなことを理解するようになる基本的な思考形態は原形的なタイプ(型)
としてこの時に具わると言えそうです。それは、よちよち歩きがいずれは走る能力を原形的
には既に示していると言えるのと同じです。ただしこの原形的なタイプ(型)が実際にどのよ
うなものか、例えば大脳の中の神経組織(ニューロン)にどう記載されているかはまったく解
明できません。解明するどころか、この謎は永遠に謎のままであろうと思われます。
ですから「原形的なタイプ(型)」と私が言うのも外形的な当て推量でのものに過ぎません。
逆に言えば外形的な当て推量が言葉によって可能なのだということです。少し話が飛躍
しますが、「言葉」の本質の一側面はこれだと言えます。つまり言葉は「ことがらそのもの」
であることはあり得ませんが、それを音や字として指し示す(意味する)ことが本質的な役割
であるということです。‥‥
「原形的なタイプ(型)」とはいわばブラックボックスです。中身を知ることは不可能です。最近
の技術で人間型のロボットが次々に作られていますが内蔵されている人工頭脳(コンピュー
ター)はこのブラックボックスとは程遠いものです。このブラックボックスを具えることは生命体
でなければできません。ロボットはあくまで人工的、機械仕掛けのもので、歩いたり発声した
りしますが、これを生命活動として行なうわけではありません。生命活動として振舞う機能は
まったくありません。犬型ロボットもどんなに改良しても本物の犬に優ることはできません。
それは本物の犬は「ことがらそのもの」ですが、ロボットは「言葉」だと喩えられるからです。

2012年3月21日 (水)

「私」‥30

「私」とは何か、道徳とは何か、マインドコントロールとは何か、自負とは何か‥‥
ここに唯一共通していることは、私が「言葉」で何かを探ろうとしているということです。
何だそんなことかということかもしれませんが、しかしここに手がかりのすべてがあるよう
に思います。その言葉とはとりあえず「日本語」です。私がバイリンガルでしたら一部は英
語で、一部は日本語で考えるということをするかもしれませんが、私は日本語で考えるこ
としかできません。この日本語という言葉であらゆることを考えています。これは人間の思
考のタイプ(型)ということなのでしょう。身の回り(=世界)の現象を言葉に置き換える能
力を人間は具え、この言葉を介して他人との絆を形成し、社会を形成し、文化を形成し、
物を発明し、宗教を発明し、喧嘩もし、戦争もし、そして地球に君臨しています。
言葉は地域により国により民族により異なりますが、日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、
中国語、韓国語、スワヒリ語、ヘブライ語、‥‥どれも互いに翻訳できます。各国語の言
葉のレベルに格差があるという話は聞いたことがありません。文化に差があり、生活品目
に差があっても、ない方の国語がすぐに不足する言葉を作れますから本質的に差はない
と言えるでしょう。
言葉を使うという思考のタイプは人間特有のものと言えるでしょう。もし地球外生命体(宇
宙人)がいて彼らが地球を探ろうとすれば、そこに君臨する人間を探り、人間の言葉を探
ろうとするのではないかと思います。もちろん元素の種類や、温度や、水があることや、酸
素があることや、環境条件も調べるでしょうが、最終的に最大の関心事として人間の言葉
を解明しようとするのではないでしょうか。この人間との交流の可能性は人間の言葉の解
明可能性にあると言えるでしょう。ただし宇宙人の思考のタイプが言葉とは違うものだとし
たらどうするかは想像もできませんが。‥‥
しかしこんな心配は現時点ではまったく意味のないものです。それ以前に人間の、地球の
存続可能性の方が現実的な問題でしょうから。
‥‥そして私の関心は「言葉」とは何かなのです。次回から題を「言葉」とします。

2012年3月16日 (金)

「私」‥29

このブログを始めてから気付いたことですが、私は自分で驚くほど自負を持つようになった、
というか自負が高まったと思います。これは何故でしょうか。私がサラリーマンをリタイアし
世間との交渉が大幅に減ったため、井の中の蛙になったということなのでしょうか。
‥‥そうではなく、これはブログで自分の考えを表わすことに伴なって起ったことのように
思われます。
いったい自分の思うことを書き表わすということが、純粋に謙譲の気持ちだけで出来るもの
でしょうか。本当に謙譲な性格であればそもそも人に見せるために書くという行為はしない
のではないでしょうか。仮に書く内容が自分の欠点、失敗、悪事ばかりのいわゆる告白で
あっても、それを他人に読んでもらうことを意図しなければ出来ないわけで、この意図は謙
譲ではなく間違いなく自負です。私が知っているあなたの知らないことを伝えましょう、とい
う動機というものは自負がなければとても出てくるものではありません(と言い切るところも
自負ですが‥)。
しかし、自負だらけの文章は読んでも腹が立つだけでしょうが、謙譲だらけの文章も気持ち
が悪くて読めないのではないでしょうか。そうすると、その中間に位置して自負と謙譲が程
よくミックスされたものが人が読んで心持がよい文章ということになるのでしょう。確かに高
名な作家の書いたものは皆そうです。
例えば漱石の「吾輩は猫である」で言えば、内容は自負で充ち充ちていますが、それを語
るのが猫であることが限りない謙譲の形となっていて、世にもまれな自負と謙譲のブレンド
の風合いが出てあの名作に仕上がったと言えます。もしこれが猫の主人である苦沙弥先
生かあるいは「私」という人間が語る文体であったら、それも名作かもしれませんが、ずい
ぶん厭味なものだったのではないでしょうか。
‥‥ところで私は「私」をすでに28回もやっているのはこれはこれでずいぶん厭味かもしれ
ず、自負などと言う前に大いに反省しなければならないことだと思っております。‥‥

2012年3月15日 (木)

「私」‥28

前回27で言いました洗脳をマインドコントロールに訂正しました。他人(家人)から指摘された
のでそうしたのですが私は実はどちらでもよかったのです。「マインドコントロール」とは強制に
よらずさも自分の意思で選択したかのように、あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、
またその行為のことで、「洗脳」とは精神的・物理的な圧力によって、相手の主義・思想を根
本的に変えること、とされます。方法はかなり差がありますが、目的とするところは実質的に
同じで、特定の人間の考え方を外部から意図する形(内容、方向)に変えてしまうことです。
私の伝えたいことに近いニュアンスは「マインドコントロール」の方でしたので訂正したのです。
ちなみに洗脳の英語表記はbrainwashing、マインドコントロールはmindcontrolです。言葉の
由来も別々で、洗脳は政治的・軍事的な思想教育で、マインドコントロールは宗教的・社会的
な情操指導で使われるものと言っていいようです。
どちらも何かの喩えとして使われることが多く、ある意味で今の世相にマッチした使い勝手の
いい言葉と言えます。それだからこそ問題意識もなく使われているのでしょう。
私は仕事をリタイアして世間に対して一歩身を引いている(と思っている)せいか、このような
ことが逆に目について気になるのです。怒りっぽくなったのと同じ、歳のなせる業でしょうか。
‥‥それにしても感心するのは、特に英語表記において感じますが、人の心は手玉に取れ
るものだとしていることです。まるでロボットを扱うのと同じようです。
私は自分さえよく分からないのに、人の心ぐらい分からない代物はないと思っていますので、
いっそうこれを強く感じます。
といっても私が人間不信に陥っているとも感じません。腹の立つことも多いのですが、今のと
ころまあ適当にうまく(?)やっていると思っています。
それと、ここで話していることが地口(言葉遊び)めいていることもよく意識しています。‥‥

2012年3月13日 (火)

「私」‥27

最近またマインドコントロール(mind control)のことが某タレントに関連して話題になっています。
私は、このマインドコントロールということを問題意識なしによく使うもんだなといつも思います。
某タレントの奇行やカルト教団という問題ではなく、「マインドコントロール」と呼んだ時に、これ
は日常的なことからかけ離れた異常な経験に置かれたことだ(当然自分とは無縁のことだ)と
前提していることがです。そう疑り深いひねくれた性格でなくても、自分も何かにマインドコン
トロールされていないだろうかと少しでも疑問を持つことはないのだろうかと。‥‥
マインドコントロールとは、強制によらずさも自分の意思で選択したかのように、あらかじめ決
められた結論へと誘導する技術、またその行為のことです(ウィキペディア)。この意味からす
ると世の中はマインドコントロールに溢れている、というより自分の身の回りにごく普通にある
と言えそうです。赤ん坊時代からの親の躾け、学校の教育、新聞・テレビから伝えられるニュ
ース、ドラマ、バラエティー、CM‥‥これらすべてに当てはまります。私が保有する知識の大
部分は私の意志で選択したものではないと言えます。そして世の中の常識を具えるという、あ
らかじめ決められた結論へと誘導されて現在生きていると言えます。これをありがたいと思い
こそすれひどい目にあったとはまず考えないでしょう(まあほとんど無意識でしょう)。
しかし、これは紛れもないマインドコントロールです。それでもオレはびた一文もマインドコント
ロールされてないと言い切れる人がいますかね。‥‥
そんなことを言い出したら社会が成り立たないではないかと誰でも言うはずです。そうです、こ
れは社会が成り立つ“仕組み”といっていいものでしょう。
そして皆が不思議と思わない「世の中の常識」と異質なもの(別の考え方)が出てきた時にそ
のやり方を「マインドコントロール」と呼んで非難し、「世の中の常識」の方へ戻るよう説得しよう
とするということなのです。特に宗教がやり玉に上がりやすいのは、ことがらが精神的なやり方
にまともに当てはまるからでしょう。
昔から、ある社会・地域に新しい宗教が入り広まろうとした時、すんなりと受け入れられるのは
まれで、多くの場合厳しい排斥・圧迫を受けたのが歴史的事実でしょう。これは現代でもまった
く変わっていないのです(憲法で信教の自由が保障されていてもです)。
こうなると何もかもが怪しいものに見えてきそうです。
しかし「当たり前」を疑うのも当たり前のはずですがね。

2012年3月12日 (月)

「私」‥26

今、私が誰に遠慮することもなく、誰にも邪魔されることなく「私」(自分)のことを考えるこ
とができるのも400年前にデカルトが最初にこのための心得、方法というものを宣言したか
らだと言っても大袈裟ではありません。
内部世界(精神世界)を思考(内省)によって解明する視点と、肉体を含む外部世界を物理
学的法則を発見して解明する視点というダブル・スタンダードで世界の出来事を解釈しよう
とする考えを「心身二元論」と呼びます。デカルトがこれを始めたとされています。
しかしこれは後人の行き過ぎた後講釈と言ってもよく、デカルトは専らこの二元論を主張し
たかったわけではないでしょう。そして「心身二元論」という言葉も使ってない(と思います)。
デカルトが最も強調しようとしたのは、世界の真理の究明に対する「自己」の思考の仕方、
思考方法の理想形を示すことだったと思います(「方法序説」とはその意味です)。
デカルトの「自己認識は自己だけで完結する」という宣言はその後継者達によって外向き
にも内向きにも展開され、前者は近代科学、後者は近代哲学のそれぞれ大きな発展をも
たらしました。
ところが現代に至るまでにこの外面と内面が別々に独自の進歩を果たした結果として、
例えば「物理学」では「心」はまったく解明できないという事態に今更のように気が付くと、
いったいこんなことになったのは何故だ、誰のせいだ、そうだデカルトだ、デカルトが元祖
のこの二元論がすべての根源だと言い出し始めたというわけです。従って、これを聞いて
一番驚くのはデカルトでしょう(生きていれば)。簡単に言えばまったく筋違いの話だとい
うことです。

2012年3月11日 (日)

「私」‥25

以前述べましたように視・聴・嗅・味・触の肉体的な五感は「私」の外部世界を知覚するセン
サーです。従って五感には「私」の内部世界と言える「私」を知覚する機能はないと言ってい
いと思います。五感センサーが外部世界を知覚する主体こそが「私」であると言えます。つま
り五感を動員して外部世界を把握しようとする主人公が「私」なのです。いわば外部世界を
認識すること、それが即ち「私」であるということです。
従って、私が「私」を探るには肉体的な五感に頼ることはできず、それはまさに精神作用であ
る思考によるほかはないということになります。私が「私」を知る方法は「私」をとことん考える
こと以外にありません。‥‥
私が「私」であることを知っているということを端的に述べた哲学者はデカルトです。
有名な「私は思う、ゆえに私は存在する」(Cogito ergo sum. コギト エルゴ スム)という
言葉です。デカルトは「私」とは今現に考えている私(自分)のことであると言っているのです。
それが分かったと言っています。つまり「私」の内容ではなく「私」の質が分かった、それは考
えている主体なのだと言っているのです。
‥‥私の見ているものはすべて夢・幻かもしれないと思う。しかしそう思っている私まで夢・
幻と思うことはできない。現にそう思って今ここにいるのが私であることは疑いようがないのだ
から‥‥というわけです。
自分というものの認識に自分以外のものを介在させないというデカルトのこの宣言は非常に
大きな意義がありました。これは哲学におけるパラダイム転換であったに違いありません。
何故ならこれまでの哲学においては、まずこの世界は神の創造物であるということから始め
るのが常であるため、やはり神に創られた自分というものの認識にも必ず神を介在させ、自
分が自分の内面を直接考察したことを真理とすることが方法として阻まれていたからです。
17世紀頃はまだ宗教界(キリスト教)の力は強大で思想界もいわば「神」の支配下に置かれ
ていたのです。
皮肉なこととも言え興味を感じるのは、デカルトは「神」の存在証明までやっておきながら、
自己認識は自己だけで完結する(真理は思考により得られる)と、当時の思想界を統べる
神の不文律に風穴を開けてしまったということです。
結果的にはこれにより近代哲学の夜明けがもたらされたと言えるのです。

2012年3月 1日 (木)

「私」‥24

道徳の定義の難しさを踏まえた上で、「相手の立場になって考えること」(感情移入)の
道徳性を考えて見ましょう。
感情移入とは文字通りに言えば、相手の身体に入り込みその人間の知覚を得ることに
よって相手の感情(気持)を知ることです。しかし誰でも分かりますようにこんなことは不
可能です(「私」‥3で言ったことと同じです)。
それにもかかわらず何故可能であるかのように感情移入と言うのでしょうか。私はそこに
目に見えない優劣関係を前提した考え方があるのではないかと思います。つまり感情移
入する側が相手を見下ろしている形がそこにあるのであって、相手の気持という名前の
自分の考えの押し付け、言ってみれば親切の押し売りであろうということです。
いったい他人(相手)の考えを完全に知るなどというのは不可能なことであり、せいぜい
予想(類推)することまでです。いくら相手に「同感する」と言ったところで本当に同じ感情
を持つことなどできないのです。相手の痛みを共有すると言ったところで同じ痛みである
かどうか確認する術(すべ)はありません。要するに感情移入する側の一方的な、いわば
勝手な思い込みだということです。
もちろん、親切は相手には絶対伝わらないと言うつもりはありません。親切は一度ならず
とも繰り返し行なえば最後には必ず相手に伝わるものでしょう。しかし親切にすることが
道徳的であるという保証はどこにもありません。「親切が仇(あだ)になる」のもそう稀なこ
とではないのが現実でしょう。
それに加えて「道徳」そのものの解明の困難さがあるのです。
もし真に普遍的な「道徳」というものが見出されたら人類にとってこれ以上の幸福はない
でしょう。世界平和が実現し「戦争」は死語となるはずです。人間は有史以来これを追及
し続けてきたと言え、恐らく永遠に追及し続けるのでしょう。
‥‥こういうことであれば、「相手の立場になって考えること」(感情移入)が道徳だなど
とは小手先の智恵にしか見えないと言わざるを得ませんね。

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