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2012年4月 5日 (木)

「言葉」‥9

クオリア(感覚の質感)の問題をもう少し話しますと次のようなことだと思います。
「私」‥3での例で言えば、私が感じる「寒さ」と他の人が感じる「寒さ」を直接比較することは
できません。ただ温度計の摂氏3度を見てこの気温の寒さを共有し、今日が寒いことについ
て言葉を交わして話は通じます。しかし、温度計の目盛ではなく、私や他の人の自分の中に
ある体感としての「寒さ」の目盛というものはありません。それは体感としての「寒さ」(寒いと
いう感覚そのもの=質感)は物理的な存在把握が不可能だからです。ですから「寒さ」の直
接比較はできないのです。これは誰でも一見奇妙に思えるかもしれません。私も他の人も現
に寒いと感じているのは間違いないのに、「寒い感覚そのもの」が何で、どこから来るものか
分からないというのですから。‥‥
この感覚の起源を探求するという「クオリア問題」は「心身二元論の難問」(‥「物理学」では
「心」は解明できないという訴え)と同じ性質の問題だということがお分かりになると思います。
私はこれに明確な回答を提出しようとは思いません。ただこれに対して感じていることを言って
みたいと思います。それはこのあいだから述べている言葉の誕生経緯から出てくることです。
人間は体が受けるある感覚に対して「さむい」という声をいつしか当てるようになりました。
それは太陽が空で照る時間が短く、照らす高さも低く弱くなってくるのと合わせてその声を出
すようになり、草木や動物の活発さもこれと合っていると感じたでしょう。しかしそれが過ぎると
まったく反対に、太陽が長く強く照るようになると「あつい」という声を当てるようになり、その時
は草木や動物も活気を示しているでしょう。こうして「さむい」「あつい」という言葉が生まれ、同
時に寒くない時でも「さむい」ことを語り、暑くない時でも「あつい」ことを語るという一段階進ん
だ会話もするようになりました。つまり言葉が思考になったということで、このことは前回までに
述べました。
そこで私が言いたいのは、クオリア、即ち感覚の起源を探る問題とは、言葉が当てられる前の
体の「感じ」の正体を探ることにほかならないのではないかということです。それは思考を言葉
なしでやることにほかならないということです。例の「私は公園の桜を見る」という思考の「 」内
を空白にして「 ‥ 」のことを考えるということです。そういうおかしさが感じられるのです。
‥‥はっきり言えば、クオリアの問題は問題のたて方がおかしい(それを問題にするのがおか
しい)ということです。‥‥これは草野球の外野のヤジかもしれませんね?

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