« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月

2012年4月27日 (金)

「言葉」‥18

少しマニアックな話になりますが、催眠療法に「自律訓練法」というものがあります。簡単に
言えば、言葉で自己暗示をかけて目的とするある精神状態へ誘導することです。例えば、リ
ラックスした仰臥の体勢を持続しながら、①気持ちは落ち着いている②両手、両足が重たく
暖かくなった③額は涼しくなった④太陽神経叢(へそのあたり)が暖かくなった‥‥と心の中
で順に唱え、この①~④を繰り返します。人により、訓練度合い(慣れ度合い)により①~④
の一回の時間はまちまちで3分~15分(慣れないうちほど時間がかかる)くらいで、3、4回繰
り返します。最後に覚醒(覚醒を唱え催眠を解く)して終わります。
私は小学校高学年の頃から強迫神経症の気質に悩んでいて、これを何とか自分で直そうと
少し大きな本屋の心理学のコーナーにあった本を見つけてこれを読みながら文字通り自分で
訓練したわけです。二十才の頃これに凝りだして(学生で時間がありましたから)3ヶ月程で
自分なりに会得して上の神経症も大分改善したと思っています。これは今でも(たまに思いつ
いた時に)やっていて、まあ一種の趣味の位置づけのもの(寝付けない時にやるというような)
になっています。
何が言いたいかといえば、この訓練法がまさに「言葉」主導によるもので、確かに両手足が重
たく暖かくなり、額は涼しくなり、へそのあたりは暖かくなり‥‥と誘導されるのです(人により
進捗度合いには差があるでしょうが)。「言葉」そのものに特段の興味を持っていたわけではな
かった当時は思ってもみませんでしたが、この一連の誘導作業が「言葉」を起点にすべて行わ
れることが何故できるのかという素朴な疑問があるのです。
言葉の力と言ってしまえば簡単ですが、言葉に文字通り力学的な「力」などありませんし、薬
理学的なこととも無関係です。それは、言葉(意識)が体に命じて体が生理的変化を起こすの
です。催眠術と言われるものはだいたい皆この手法なのだろうと思います。それにしてもまず
「最初に言葉ありき」なのです。私のような個人でなく、グループや社会集団のレベルでこれ
を行なうのが前にも述べました(「私」‥27)マインド・コントロールということになるのでしょう。
「言葉を制するものは世界を制する」と言っても大袈裟ではないかもしれません。世界史にお
いては歴史を動かした雄弁家は何人もいます。近代で最も目立つのは何と言ってもドイツの
ヒットラーで、今に残る彼の演説録音を聞けば(内容はよく分からなくても)何万(何十万)もの
聴衆があげる賛同のうなり声は恐ろしく、凄まじいとしか言いようがありません。どこぞのミサ
イル発射と核実験を繰り返す国が流す演出された演説セレモニーとはまったく異なるもので
す。しかし演出されたものでも効果があるから(特に対内的に)やっているとも言えるでしょう。
良い悪いは別にして人間を瞬時に動かしてしまう力を言葉は持っていて、それは金銭・名声・
昇進等の欲望による契機など比較すべくもなく絶大な力であるということです。

2012年4月23日 (月)

「言葉」‥17

誰でもどこかで見たか、聞いたことがあると思いますが、「アキレスと亀」という問題があり
ます。前方に亀、後方にアキレスがいる位置から同時に前に走り出したとき、アキレスが絶
対に亀を追い越せないというものです。例えば亀とアキレスが100メートル離れてスタートした
として、亀がスタートした地点にアキレスが走って来たとき、亀はすでに3メートル前を進んで
いる。そしてまたその地点にアキレスが来たとき亀はやはり10センチくらい前にいる。そこに
またアキレスが来ても亀は数ミリ前にいる。‥‥こうしてこれを何度繰り返してもアキレスが
亀を追い越すことは決してできない、という話です。これは紀元前ギリシャのソクラテスと同時
代に活躍した哲学者であるゼノンが出した問題で「ゼノンのパラドックス(逆説)」と呼ばれて
いるものです。
さてこの問題をどう解けばいいのでしょうか(どこがおかしいのでしょうか)?
私が「言葉」のテーマでこの話を持ち出す理由ともなりますが、前々回の「とき(時間)」の話
にも大いに関係があることです。これには色々な答え方があると思います。
私が思ったのは、アキレスは常に亀が「過去にいた地点」にその後(未来に)来る形になって
いるので、つまり「過去の後追い」の繰り返しの構図(説明)なので時間的に追い越せるはず
がないというものです。この問題の話の進め方が、意図的に「時間後追い」を作り出していて
誤った設定だということです。これを数学的に解こうとして方程式を立てて何らかの不等式を
導こうとしたくなるかもしれませんが、それをすると大概うまくいきません。なぜなら問題の話
の筋道に目に見えない誤りがあるので、この筋道にそって方程式を立てても正しい答えが出
るわけがないからです。
そしてこの「アキレスと亀」の最大のポイントは、アキレスが亀を永久に追い越せないというこ
とを一見論理矛盾なく言葉で説明ができてしまうことなのでしょう。ゼノンも本当に言いたかっ
たのはそのことだったのではないでしょうか(問題を出して内心舌を出して一人悦に入ってい
るわけではなかったと思います)。
言葉はあるものごとを誤りなく結論まで導き出して説明し果(おお)せる性質を持っていて、
説明そのものから誤りを見つけることは実は容易ではないということです。さらに、それを話
す人が誤りに気付いている(悪意)場合もあれば、気付かずにいる(善意)場合も多いという
ことになるでしょう。

2012年4月22日 (日)

「言葉」‥16

解明することが本質的に困難な「感覚」のことを最後にもう一度おさらいをしてみましょう。
少しウンザリ気味で、これで「感覚」にケリをつけるためにまとめをしておこうということです。
「感覚」のことを私たちは「感じ」と呼んでいます。ニュアンスからしてもぼんやりした言葉で
すが、通常次のような意味と例で使われています。
・感覚‥‥手で触れると冷たい感じがした
・気持・感想・印象‥‥春めいた感じ、人の好さそうな感じ
・反応‥‥音を聞く感じが鋭い、運転の感じがいい
・雰囲気‥‥都会の感じがする、大人の感じを漂わせる
そしてこれを哲学的に言えばこうなります(D.ヒュームの表現を借ります)。
・「感じ」は感覚的な直接知覚である。「信念」が所在する場所、あるいは同義に近い。
・「感じ」はこれ自体で述語になるが、「感じ」を説明する述語はない。
・「感じ」をときには「心持」とも言い表わし、この二つの区別はない。
・「感じ」によって印象や観念の活気、勢いは示されこれ以外にはない。
また英語では次のような語(訳語)が使われています。
・sensation(感覚)、feeling(心持)、impression(印象)、atmosphere(雰囲気)
以上が「感じ(=感覚)」のまとめと言っておきたいと考えます。
‥‥‥‥‥‥
言葉が「ものごとの言葉による喩え」という意味で、「感じ」が喩えるのはどんなもののことか
と問うことは「クオリアの問い」と同じでこれが解明不可能なことは何度も言った通りです。
言葉の領域内からは手の届かない領域外のことがらだからと言う以外になく、これを突破し
よう(解明しよう)としても堂々巡りに陥るだけです。
ある「感じ」に音声記号を当てて「言葉」が出来ているとき、その「感じ」を「言葉」で説明が出
来るでしょうか。これには「感じ」の「感じ」を指し示す言葉が必要ですがそのような言葉があ
るでしょうか。‥‥これはもう人間の頭(思考)の構造上から不可能です。「言葉という思考の
タイプ(型)」からはみ出しているからなのでしょう。
そしてすでに私の説明も堂々巡りであることがお分かりになるでしょう。

2012年4月18日 (水)

「言葉」‥15

「とき」の話の続きをやります。「ときのうつろい」の感じを時間感覚と呼んでいます。これが私
たちが「時間」を考えることができる唯一の根拠で、頼るところは他に何もありません。時間は
手にすることはもちろん、見ること聞くこと嗅ぐこと味わうことは不可能です。え?時計の針が
動くのが見えるよ、チクタクの音が聞こえるよ、それは時間の姿でしょう、と仰るかもしれませ
んが、時計の針の動きは時間の姿ではなく視野の中の動いている針のことですし、チクタクは
時間の音ではなく耳に入った小さな空気の振動のことです。手首の脈を指で感じ取るのも時
間の刻みではなく心臓の脈動のことです。
よく考えれば、ハハ~ンこれが時間だと分かる代物は(ものとして確認できるものは)どこにも
ないことが分かります。え?どこにもないのに「時間」とは言わないだろう、どこかにあるから言
うのだろう、と仰るでしょう。しかし天地神明に誓って私は言います、時間はどこにもありません。
勘のいい方は気がついたかもしれませんね。これは「クオリアの問題」と同じなのです。
私たちは確かに「ときのうつろい」を感じ取ることができ、その感じを「とき」と名づけたのです。
しかし、その「感じ」がどういうもので、どこからくるのか、即ち「感じ」の起源はさっぱり不明な
のです。感覚の質感(感覚)をいくら探求しても何も得られません。ただこの「感じ」の能力があ
るのは生き物だけです。逆に「時間感覚」を持っていることが生き物である証明だと言えます。
従って、この能力とは「生体反応」だと説明する以外になくこれ以上議論は進展せずここで話
は終わるのです。
ちなみにこの「時間論争」は西洋では紀元前のギリシャ時代から現代まで続く哲学上・科学上
の難問中の難問と言えるもので、時間が存在すると主張するのが「絶対時間論」でニュートン
が親玉です。また時間は存在せず、物体間を「光の速さ」で計った相対的な位置関係があるだ
けと主張するのが「相対時間論」でアインシュタインが親玉です。もちろんこの決着はいまだに
ついていません。‥‥あなたはどちらにつきますか?

2012年4月17日 (火)

「言葉」‥14

前回の「価値」に劣らず、あるいはそれ以上に人間を悩ましている言葉に「とき(時間)」が
あります。人間は自分の回りのものごとの移ろいが確かにあると感じることができたため、
これに「とき」という名を当てました。回りのものごと、自分、家族、草、木、動物、雨、水、
雲、太陽、月‥‥はすべて動いている(変化する)ことが感じられ、早いものもあれば遅い
ものもあり、早くもなれば遅くもなり、しかしそこにはなんとなく決まったもの(規則)がある
ようにも感じたはずです。今で言う体内時計がそのことを教えたと言っていいでしょう。
言うまでもなくこれは本能で、言い換えれば生体反応です。つまり「とき」という名を知らな
くてもこの感じを具えていたのですが、感覚され意識されるものすべてに名をつけていった
なかで当然「とき」という名も生まれてきたのです。
この限りでは「とき」に悩むことなどなかったと言っていいでしょう。悩むのは言葉として完
全に定着してから、言葉(=思考)で言葉を探る二段階思考(抽象的思考)をするようにな
ってからなのです。
何を悩むかといえば端的に「自分が生きられる時間」ということになるでしょう。人間は「と
き(時間)」という名と引き換えに自分の死(寿命)という明確な意識につきまとわれる宿命
になったわけです。およそ地球上の生命体のなかで子供の時から「死」の知識を持つもの
は人間以外にないと言っていいでしょう。もちろん「死」を回避しようとするのは人間から細
菌までの全生物に共通の本能です。しかし後天的な知恵として「死」を考えるということを
するのは人間だけでしょう。少なくとも人間的思考レベルと同等の神経活動を行なう生物
は他にはいません。
そして悩んだあげく出てきたことがなぜ「とき」があるのか、「とき」とは何なのか、「とき」は
存在するのかという疑問です。この疑問を解き明かしたところで「自分が生きられる時間」
が変わるものではありません。それも知識として持った上でこの疑問を持ち出すのです。
そしてこの疑問は永遠に解けないという直感も同時に持っているといっていいでしょう。そ
して前回と同じ嘆息が出てくるのです。そうだとすると言葉は何と罪作りなものなのでしょ
うか‥と。旧約聖書に出てくる挿話、最初の人間アダムが禁断の木(知恵の木)の実を食
べた罪を子孫まで負うことになる話と似ているようにも思えますが(言葉=知恵なので)。
しかしながら、このような悩みが契機となって人間に文化をもたらした面もあながち否定で
きないとすれば逆にそれは言葉の力だということになります。
冷静に考えればやはり言葉は人間のかけがえのない財産であるのは疑いないでしょう。

2012年4月14日 (土)

「言葉」‥13

言葉は思考ですから言葉自身によって新たな言葉が次々と考え出されました。それらのなかで
人間社会に大きな影響をもたらした言葉に「価値」があります。他にも重要な言葉はたくさんあり
ますが、今日は「価値」という言葉について考えてみましょう。
価値とは、人間が決めているあるものごとの貴さの量であり、値打ちのことです。貴さの範疇は
決まっているわけではなく、精神的(抽象的)なものから物質的なものまで様々です。即ち、道徳
的なもの、歴史的なもの、文化的なもの、宗教的なもの、学術的なもの、科学的なもの、芸術的
なもの、経済的(金銭的)なもの、本能的(食料、異性等)なもの‥‥と切りがないのですが、基
本的には人間の欲望と切り離しては存在しないものだといっていいでしょう(経済学の「需要供給
理論」の需要も欲望のことです)。
さらにその貴さは絶対量として計れるものではなくすべて相対的なものです。つまり客観的な価
値評価の基準があるわけではなく、類似したものや効用が同じものとの比較による主観に基づ
いてすべて決められています。また価値の対象が何であれ、時代や環境、境遇、つまりその価
値に関わる人間の置かれた立場で、無にも有にもなり、小さくも大きくもなり、決して一定の意味
や形に決まることはありません。
例えば、都会の暮らしでとは逆に、水の無い砂漠ではコップ一杯の水がダイヤモンドより大きな
価値を持ちます。もっと極端な喩えを言えば、人間がこれまでの長い歴史において積み上げてき
た文明の価値は計測不能と言ってもいいほど莫大なものと考えられるでしょうが、これを地球か
ら離れた立場で見ると想像すれば(人間の価値観から離れるという意味ですが)、地球に人間が
君臨するようになったことによって特別に付加されたもの(=価値)など何もないということが直観
できるのではないでしょうか。
つまり価値とは錯覚であると言って間違いなさそうです。株や不動産の世界ではしばしばバブル
が発生したり消滅したりしますが、それは数年間という比較的短期間に起こる現象なのでそうい
ったものの価値の錯覚性が事後的に暴かれるわけであって、実はあらゆる価値が錯覚なのだと
言ってもいいでしょう。ただ人間は社会の中で生きている限り、この価値の世界から逃れる方法
がないということも間違いない事実なのです。
そうだとすると言葉は何と罪作りなものなのでしょうか。有史以来この「価値」のためにどれだけ
多くの血が流され人命が失われたことか。‥‥
しかしこれを言葉に責任を求めることほど筋違いな話はないでしょう。また言葉を生み出した感覚
のせいにすればもっとひどい話で、ナンセンスな空言というほかなくなります(私の名前のような
ものです)。発言(失言)が責任を伴なうのは社会の決めごととは言え、言葉や感覚を磔(はりつ
け)にすることに何の「価値」もありません。

2012年4月12日 (木)

「言葉」‥12

ちょうど今頃の時節を詠んだ与謝蕪村の俳句に「菜の花や月は東に日は西に」という有名な句
があります。うす黄色に菜の花畑が広がる春の夕方、ともに橙色で東の空に登る月と西に沈む
日の鮮やかなコントラストと尽きぬ余韻とであとは何も要らないのであり、これを詠んだ才人に誰
もが崇敬の念を抱くものです。
しかし、この同じ情景を外人(西洋人)が詠んだとしたら例えば「菜の花を月と太陽照らしてる」と
いうような俳句(?)になるのではないでしょうか(このブログを見る外人さんはいないでしょうが、
もしいたら大変失礼!)。昔読んだ誰かのエッセーにも同じようなことが書いてあって、その時の
俳句は「鎌倉に鳥がたくさん飛んでいた」だったと思います。生まれてこの方ずっと日本語を使っ
ている日本人でも風情に富んだ良質な句を作るのは簡単ではないのに、日本語が片言でしか
ない外人にとって俳句は日本語を5-7-5に並べただけのものになるのは止むを得ないことな
のでしょう。
気が遠くなるほどの長い時を経て我が国においても言葉が生まれ、その後漢字と融合して日本
独自の文字言葉が作られ、鍛えられ、さらにまた洗練された言葉へと変わりながらそこに文化
が形成されていった過程のなかで和歌が、そして俳句が日本語の言語芸術の一つの形として
結晶したものだったと言えるでしょう。
この質の高さは世界に誇れるものであるのはもちろんでしょうが、ただ日本語を使わない人には
理解不能という以外にないでしょう。最近は俳句の英訳も出ていると聞いたことがありますが、
音声言葉の性質を多く残してできあがっている俳句の英訳とはどういう意味があるのか私には
理解できません。
そしてこの逆もまた間違いなくあるのです。例えばアルファベット系のヨーロッパ語(英語、ドイツ
語、フランス語、スペイン語等)の詩や散文にはふんだんに韻律が使われているはずで、これは
日本語に翻訳不能です。詩や散文だけでなく西欧の哲学も言葉のエッセンスで表現されている
文体の部分は完璧に日本語化できるとはやはり考えづらいと言わざるを得ません。その上鴎外
が述べていたように外国語にあって日本語にない言葉(概念)が少なからずあるのですから。
最近、外国語が日本語化するのに翻訳でなく音声言葉がそのままカタカナ表記される例が多く
なっているのはズレた訳語を無理に当てはめるよりもむしろ好ましいかもしれず、同時に他に本
質的な解決方法がないことを物語っているのだと思います。

2012年4月10日 (火)

「言葉」‥11

「言霊(ことだま)」ということが最近あまり言われなくなったと感じているのは私の思い過ごしで
しょうか。
もっとも私が子どもの頃から言霊という言葉になじみがあったというわけではありません。高校く
らいまでは知らない言葉でした。ただ文芸の世界ではたまに誌面に登場する言葉としてありま
した。自殺する前の三島由紀夫が使っていましたし、野坂昭如なども言っていました。小林秀雄
はもっと前に言っていた。しかし今の作家でこの言葉を使うものがいるのかまったく知りません。
言霊とは言葉に宿る(と信じられた)力のことを言います。例えば言葉を発したらその通りのこと
が起こったというような。その場合言葉がものごとを予言したのではなく、言葉がそのものごとを
引き起こしたと言うのです。科学的な根拠はありません。ただそう信じたということなのです。
上の作家たちが本気で信じていたかは分かりません。ただ信じたいという姿勢を見せてはいた
といえます。今は信じたいという姿勢を見せる者がいなくなったということかもしれません。
今さら「言霊」を語るのも気が引けるからでしょうか、「義憤」を言うのは相変わらず平気でやって
いますが。‥‥
辞書を見るとわかりますが、言霊は非常に古くからあった言葉で、万葉集に「言霊の幸(さきは)
ふ国と語りつぎ言ひつがひけり」(言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国と語り言い継が
れてきました)とあり、もちろん当時の我が国のことです。
では言霊は今や死語となってしまい使われなくなったのかというと必ずしもそうは言えません。
神主さんが使う祝詞(のりと)は霊験あらたかな言霊のことで、結婚式や地鎮祭などで今も語ら
れています。そして野球やサッカーの応援での声援、大震災の被災地への応援メッセージも考
えてみればこの言霊に縋(すが)る性質のもので、応援の言葉が力になると信じて皆これをして
いるはずです。もっと言えば、試験や競技の前に自分につぶやいて気持ちを落ち着かせる自己
暗示も言霊と言えるでしょう。
ところで、専門書によれば古代において「こと」とは「言」と「事」とをも指した言葉であったとあり、
私が述べました「ものごとの言葉による喩え」どころか同一のものだったということです。
‥‥私のあてずっぽうも言霊のなせる技に違いありませんね。

2012年4月 7日 (土)

「言葉」‥10

人間は言葉を発明し、特に文字言葉を持つことにより完全に頭でっかちになりました。
文字言葉の所有以降の文明発展のスピードはそれ以前の人類史の長さを考えると信じ
られないほどの速さだといっていいでしょう。この世の果てはなく無限の広がりがあったと
いう世界から、地球のフロンティアが消滅し食料やエネルギー資源の限界を意識しなけ
ればならない世界にあっという間に変わってしまいました。
頭でっかちで考えは絶え間なく生まれ続けるのですが、実質的な行動範囲は限られてし
まった状態になってきたといっていいでしょう。
勢いバーチャルの世界と内面の世界に皆こぞってのめり込み始めました(このブログに
籠もるのも皮肉この上ないことかもしれません)。外部世界へ出れなければあとは内部
世界へ向かうのは必然的なことだということになるからです。明るい健康的な世界から暗
く陰気な世界へ向かっているといってもいいでしょう。‥‥
しかしこれは後戻りはできないことです。今から言葉を捨て、文明を捨て、原始時代へ戻
って行きましょうと言ってもそれに賛成する人がいるはずがありません。これがSF映画の
ように惑星間を移動したり太陽系外へ簡単に脱出できればいいのでしょうがそれは文字
通りフィクションでしかありません。
‥‥これは人類が経験する初めての閉塞感かもしれません。あとは「神」に祈るしかない
のか。しかし「神」も人間の言葉が生み出したものです。神が言葉を生み出したわけでは
決してありません(異論があるかもしれませんがそれは異論なだけです)。またこれを誰
かのせいにするわけにもいきません。言葉が生まれたのは特定の誰かがしたことではな
く、人間が自分の感覚に導かれて活動した結果だという以外にないからです。
あ~あ、裏の公園の桜でも見に行くとしよう。うっとうしいことも忘れるだろう‥‥。

2012年4月 5日 (木)

「言葉」‥9

クオリア(感覚の質感)の問題をもう少し話しますと次のようなことだと思います。
「私」‥3での例で言えば、私が感じる「寒さ」と他の人が感じる「寒さ」を直接比較することは
できません。ただ温度計の摂氏3度を見てこの気温の寒さを共有し、今日が寒いことについ
て言葉を交わして話は通じます。しかし、温度計の目盛ではなく、私や他の人の自分の中に
ある体感としての「寒さ」の目盛というものはありません。それは体感としての「寒さ」(寒いと
いう感覚そのもの=質感)は物理的な存在把握が不可能だからです。ですから「寒さ」の直
接比較はできないのです。これは誰でも一見奇妙に思えるかもしれません。私も他の人も現
に寒いと感じているのは間違いないのに、「寒い感覚そのもの」が何で、どこから来るものか
分からないというのですから。‥‥
この感覚の起源を探求するという「クオリア問題」は「心身二元論の難問」(‥「物理学」では
「心」は解明できないという訴え)と同じ性質の問題だということがお分かりになると思います。
私はこれに明確な回答を提出しようとは思いません。ただこれに対して感じていることを言って
みたいと思います。それはこのあいだから述べている言葉の誕生経緯から出てくることです。
人間は体が受けるある感覚に対して「さむい」という声をいつしか当てるようになりました。
それは太陽が空で照る時間が短く、照らす高さも低く弱くなってくるのと合わせてその声を出
すようになり、草木や動物の活発さもこれと合っていると感じたでしょう。しかしそれが過ぎると
まったく反対に、太陽が長く強く照るようになると「あつい」という声を当てるようになり、その時
は草木や動物も活気を示しているでしょう。こうして「さむい」「あつい」という言葉が生まれ、同
時に寒くない時でも「さむい」ことを語り、暑くない時でも「あつい」ことを語るという一段階進ん
だ会話もするようになりました。つまり言葉が思考になったということで、このことは前回までに
述べました。
そこで私が言いたいのは、クオリア、即ち感覚の起源を探る問題とは、言葉が当てられる前の
体の「感じ」の正体を探ることにほかならないのではないかということです。それは思考を言葉
なしでやることにほかならないということです。例の「私は公園の桜を見る」という思考の「 」内
を空白にして「 ‥ 」のことを考えるということです。そういうおかしさが感じられるのです。
‥‥はっきり言えば、クオリアの問題は問題のたて方がおかしい(それを問題にするのがおか
しい)ということです。‥‥これは草野球の外野のヤジかもしれませんね?

2012年4月 3日 (火)

「言葉」‥8

今度は言葉と感覚と思考の関係について考えてみましょう。
先般より体の五感のことをしばしば述べましたが、これは言うまでもなく視覚、聴覚、味覚、
嗅覚、触覚の5つの感覚のことです。この他にも説明できない感が働く時それを第六感など
と言います。第六感は別にして、五感は生得的に具わっているという意味で本能(本源的
能力)に相当するものです。つまり感覚は人間にとって言葉よりはるかに古い、人間が原生
動物であった頃にまで遡りうる本源的な生体機能です。
地球上のあらゆる生物はこの感覚によって、感覚に従って、言うなれば感覚の命ずるまま
に生きているといっていいでしょう。人間とて例外ではありません。いや、私はそんなに無自
覚に生きてはいないと仰るかもしれませんが、つまり無自覚=無考えのことで私はいつも
考えながらやっていると仰るでしょうが、自覚とは自ずから持つ感覚のことです(語呂合わせ
ではなく)。どうあがいたところでどのみち感覚に頼り、感覚が基本となっています。
それなら思考と感覚の区別はないのでしょうか。前回、思考は(観念、概念も)本質的に言
葉だと言いました。思考は言葉だけの素材でできていて、言葉以外のものはまったく入って
いません(もちろん図形記号や数字も言葉です)。そして言葉とは人間が自分の身の回りの
ものごとに対して付した音声が原初的なものとなって生まれました。見たり聞いたり味わっ
たり嗅いだり触ったりしたものごとに対して、つまり五感で得た感覚に対して音声記号を当
てることを仲間と共有していくなかで言葉が生み出されました(それをことがらの言葉の喩え
とも言いました)。そしてこの言葉が思考のタイプ(型)となり、思考そのものになったというこ
とでした。要するに言葉の誕生経緯を探っていくことによって、感覚→言葉→思考というシン
プルな形の関係が描かれるといっていいでしょう。
ではこの関係のスタートラインに立つ感覚とはそも何なのでしょうか。‥‥
結論から言いますと、現在のところこれは不明とされています。この問題は最近の言い方で
「クオリア(感覚の質感)」と呼んで、“世紀の謎”にまつり上げられています。哲学者、心理
学者、脳科学者etcの人たちが渾然一体となってアタックするもなかなかはかばかしくいって
いないようです。
‥‥どうもシロウト目には、感覚の質感(=感覚)などと言葉の二つ重ねは、第六感と同じく
ジョーク以外の意味があるのかと思えてくるのですが。

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »