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2012年5月 7日 (月)

「言葉」‥20

「ゼノンのパラドックス」の例に見るような、人間の思考が陥りがちな矛盾(誤謬)がなぜ成立
してしまうかについて最も深く探究した哲学といえば近代西洋哲学の極北とも位置付けられる
カントが挙げられます。カントが主著である「純粋理性批判」のなかで述べている、理性が感性
との関わりにおいて現出させるアンチノミー(二律背反)として描き出したものが最も名高いも
のではないでしょうか。
その概要だけ言えば、それは正命題(例えば、世界は時間的始まりがあり空間も有限である)
と反対命題(世界は時間的な始まりがなく空間も無限である)とが言葉によって両方とも矛盾
なく真であることが説明できてしまうというものです。あるテーマについてまったく逆の結論が、
いわば正々堂々と説明がついてしまうというわけです。
カントはそこで人間の認識を主導する主体である理性というものの働き方を描いています。
人間理性の本性として具わっているのでそもそも避けることができない「錯覚」により、論理的
に誤謬推理を行なうのだというのです。理性というのは天然の錯覚名人だということです。
そして、ものごとの現れ(=現象)は実態的にはうそもまこともなく、表面的な真偽は人間の理
性が決めているものだとします。それでありながら理性が決める「現象の真偽」の普遍的な根
拠は実はどこにも存在せず、ただものごとを説明する規範(カテゴリー)があるのであって、そ
れは理性の下僕として立ち働いてこの規範を使いこなす悟性(=知恵)のなせる技だとするの
です。
ところで、カントは感覚器官が受容した知覚作用により人間にとっての「現象」をもたらすことと
なる原初的なものごとを「物自体」と呼んでいます。そのとき「物自体」の追求は不可能で人間
の知覚が及ばない「あるものX」とするのです。なぜ知覚が及ばないのかは感覚の源を探ること
だからで、例の「クオリアの問題」と同じです(またこの話になってしまいましたが)。
また、カントは「言葉がものごとの喩え」というような切り口はまったく念頭に置きませんでした。
この理由を私が勝手に邪推してしまえば、この18世紀の頃、聖書に言われる「始めに言葉あり
き」(言葉は神が作った)にメスをいれることなど思いもよらないことだったからでしょう。
カントは「理性理念」のフィールドに「神」や「魂の不滅」といった概念が入ることを極力排除する
ことはやりましたが、「言葉」そのものの存在経緯を問うことはまともにキリスト教に対する冒瀆
となってしまうことだったからなのでしょう。

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