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2012年5月18日 (金)

「言葉」‥24

さて「言葉」シリーズの前が「私」でした。ここでいやが上にもやらなければならない議論が、
「私」という「言葉」とは何であるのかです。これまでの話から当然ですが、「私」とは、みずか
らの存在感(存在意識)に対してつけた音声言葉「わたし」のことです。
「わたし」の使い始めの頃は(今でも時々そうしますが)指を自分に向けながら「わたし」と発音
したのではないでしょうか(ここで古代の発音が「わたし」だったのかあるいは他の発音だった
のか等は問題ではありません)。つまり相手との対話の場面において自分を指し示す言葉とし
て「私(わたし)」が使われたということです。端的に言って言葉「私」とはこのこと、即ち相手に
自分(私)を認知させる音声信号のことであるということで、この定義以上でも以下でもないこと
になるでしょう。
「私」シリーズで「私」が何か分からないと再三述べましたが、このように説明すれば悩む必要
もまったくなかったことになり、これだと私がやったのは悩むポーズ(悩む振り)だったことにな
るかもしれません。しかし考えてみればそれは最初からあった前提(すでにれっきとした言葉
として「私」を使っているにもかかわらず「私」が何か分からない、そういった意味での悩み)な
のであってこの定義を知って悩みが解消するなら世の中に苦労などありません。
「私」が何か分からないとは「私」という言葉が分からないのではなく、「私という私が何か」分
からないということです。‥‥そして、そう、これは「感覚の質感(感覚)」を問う「クオリアの問
題」と同じで、またまたこれかという話なのです。しかし逆に、「クオリアの問題」も「言葉の問
題(:言葉とは何か、言葉に実質はあるのか、あるとすればそれはどんな実質か、‥‥)」で
あるということになるわけですから、こうして「言葉の問題」を掘り下げることが避けられなくな
るということです。
しかしながら、「ものごとの言葉による喩え」として言葉を使っている段階では誤謬(誤解)や
悩みは生じませんが、言葉による言葉の解釈(二段階思考)をやり始めた途端に、私たちは
迷路に入っていくことになります。前に述べました「ゼノンのパラドックス」はその典型例と言
えますし、人間は紀元前からこのことに気づいていたわけです。
ところで、東洋では西洋以上にさらに古くからこれに気づいていた証拠と言えるものがありま
す。それは孔子の「論語」です。御存知の通り「論語」は極端に少ない言葉の中に驚くべき含
蓄(意味)が凝縮されて出来上がっています。漢字文でもよほど気をつけなければ冗長に流れ
易い点は他の言語とまったく同じなのですが、ここでは言葉の持つ誤謬に流れる特質はみご
とに抑制され、逆に言葉の理想の形が追求され構築されているといっていいでしょう。今さら
ではないことですが、何という奇蹟的な書であったかと言う以外にありません。

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