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2012年5月22日 (火)

「言葉」‥25

孔子の「論語」の内容は紀元前ギリシャを起源とする西洋哲学、例えばアリストテレスの自然学や
形而上学とはかなり趣を異にした書です。今から約2500年前という背景となっている文明がまった
く違いますし、今では当たり前の東西の文化的交流もなかった時代ですから当然のことでしょう。
西洋哲学に特徴の言語的な論理分析や心理分析といった側面はなく、そこで見られるのは、国王
から平民まで区別なく適用されるべき、人間を取り巻く生活全般にわたる道徳規範の理想(これを
「仁」と呼んだ)をひたすら追求する姿勢です。
しかしここでも「言葉」が重要な役割を果たすことに変わりはありません。「論語」において「言葉」の
働きについて記しているのは、例えば「子曰はく、巧言令色鮮し仁」(学而第一‥‥言葉をうまく飾り、
顔色をうまく繕うとするところに仁徳はまず無い)が有名です。この最初から3つ目の章を筆頭に、数
多くの箇所で「言葉」に関する内容に触れていますが、簡単に言えば、そのほとんど全部が言葉とい
うものの重みを強調し、言葉の過多を戒めるというものです。やはり初めの方の28番目の章の「子貢
君子を問ふ。子曰く、まずその言を行うて而して後之に従ふ」(為政第二‥‥君子は言わない先に行
なって、行なってから後に言うものである:口先ばかりで実行が伴わない者を立派な人間とは言わな
い)もよく知られているものです。そして尽くせぬほど豊かな内容があるこの書の最後も「‥‥言を知
らざれば以って人を知るなし」(堯日第二十‥‥人の心は分からないものだが、その人の口から出た
言葉でその正邪を判断できなければならない)、と「言葉」の果たす精妙な働きを述べて終わってい
るのです。‥‥要するにこの書全体が、人や社会や国をも動かす力を持つ「言葉」の重要性は強調
してもし過ぎることはないことを伝えようとしており、また文章構成そのものがそれを示すもの(型)と
なっている、と言ってもいいでしょう。西洋哲学が言葉(概念)の分析を主眼としているのに対し、「論
語」は言葉の価値追求に重きを置いていると言ってもいいでしょう。それだけに各章に無駄な言葉が
極力排除されているのです。もし「論語」が冗漫な言葉で溢れたものであれば矛盾この上ないものに
なってしまったのではないでしょうか。そしてこれらすべてがこの「論語」というタイトルに込められてい
ると言えそうで、やはり奇蹟的な書と言う以外にないでしょう。
我が国では古くからこの「論語」は最大の教養の書として位置付けられていました。ところが近代の
いつの頃からか隅に押しのけられてしまいました。この事情・背景については色々言えるでしょうが、
一言で言えば西洋の教養書と入れ変わってしまったということでしょう。近代化の旗印のもとに、民
主主義、資本主義が導入されてきた過程で「論語」は過ぎ去った封建時代を象徴する教養書として
扱われてしまったのです。本来の和魂漢才が和魂洋才に変わってしまったというわけです。日本人
の短慮と言ってしまえば簡単ですが、ここに時代の流れの怖さがあると言えるのでしょう。
「時代の精神」がいつも正しい判断をすると思うのはとんでもない誤謬で錯覚です。むしろ誤る確率
は50%くらい、つまり五分五分のものだと言うのが事実に近いのではないでしょうか。
「時代の精神」の正邪は100年単位でしか判断できないものかもしれません。今は明治の近代化か
ら一世紀半になろうという時点ですが、政治にも経済にも漂う閉塞感は「時代の精神」の転換の兆し
と言えるかもしれません。

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