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2012年5月

2012年5月24日 (木)

「言葉」‥26

「論語」につきまして、これがいかに西欧的価値観からは理解し難いものだったかということは、マ
ックス・ヴェーバーが儒教に対して抱いた独特の誤解を格好の例として示してみることである程度
分かるのではないかと思います。
ヴェーバーは著作「儒教と道教」の中の「儒教とピュウリタニズム」の章において、「論語」の「子曰
く、君子は器ならず」(為政第二‥‥人格の完成した人は、器物がただ一つの用に立つだけで他
に通用のできないようなものではない)を引用して、これは、君子は専門的職業人を目指すのでは
なく、現世順応的な自己完成を目指す生活態度を保持しなければならないことを主張したものであ
ると指摘して、儒教においては経済合理性という判断基準は無縁のことであったとしています。
しかしこの章で孔子が述べたのは、社会の政(まつりごと)を行なう上での君子たるべきものの心
得のことなのであって、経済的成果を追求するというヴェーバーの価値判断とはまったく次元の異
なる内容だったはずです。つまりヴェーバーは「論語」では経済のことは何も語ってないにもかかわ
らず、あるいは何も語ってないからこそ、儒教倫理は近代的な職業訓練、専門的な経済的訓練を
排斥したものだったと指摘するのです。これはもはや露骨という以外にない“こじつけ”でしょう。
有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を著し、20世紀を代表する西欧知識人と
も言えるマックス・ヴェーバーにしてこのような曲解を「論語」に対して行なってしまっているのです。
恐らく、時代を超えた長い「論語」理解の歴史的実績の欠如という西欧的土壌に、資本主義を育ん
だキリスト教(プロテスタンティズム)へのヴェーバーの思い入れが加わってのことだったのでしょう。
これはこれでまた別の学問的興味をそそる点ではありますが、ここではこれ以上の論及はやめて
おきましょう。
しかし一点だけ確認しておきたいこととして、無駄な言葉を極力排除した「論語」の文体にこのよう
な誤解を生み出す原因があったと言えるのでしょうか。上の例文は実際は「子曰君子不器」のわず
か六文字です。これを誤解の生じないように長たらしく書き記すこともできたでしょうが、それをした
ら金言が金言ではなくなり、「論語」が「論語」でなくなるように私には思われます。これは前に述べ
ました俳句が5-7-5の17文字で完成していることに喩えることができることでしょう。それは言葉
の最高表現を究めようとする「言語芸術」たる所以(ゆえん)がそこにあると言っていいからです。

2012年5月22日 (火)

「言葉」‥25

孔子の「論語」の内容は紀元前ギリシャを起源とする西洋哲学、例えばアリストテレスの自然学や
形而上学とはかなり趣を異にした書です。今から約2500年前という背景となっている文明がまった
く違いますし、今では当たり前の東西の文化的交流もなかった時代ですから当然のことでしょう。
西洋哲学に特徴の言語的な論理分析や心理分析といった側面はなく、そこで見られるのは、国王
から平民まで区別なく適用されるべき、人間を取り巻く生活全般にわたる道徳規範の理想(これを
「仁」と呼んだ)をひたすら追求する姿勢です。
しかしここでも「言葉」が重要な役割を果たすことに変わりはありません。「論語」において「言葉」の
働きについて記しているのは、例えば「子曰はく、巧言令色鮮し仁」(学而第一‥‥言葉をうまく飾り、
顔色をうまく繕うとするところに仁徳はまず無い)が有名です。この最初から3つ目の章を筆頭に、数
多くの箇所で「言葉」に関する内容に触れていますが、簡単に言えば、そのほとんど全部が言葉とい
うものの重みを強調し、言葉の過多を戒めるというものです。やはり初めの方の28番目の章の「子貢
君子を問ふ。子曰く、まずその言を行うて而して後之に従ふ」(為政第二‥‥君子は言わない先に行
なって、行なってから後に言うものである:口先ばかりで実行が伴わない者を立派な人間とは言わな
い)もよく知られているものです。そして尽くせぬほど豊かな内容があるこの書の最後も「‥‥言を知
らざれば以って人を知るなし」(堯日第二十‥‥人の心は分からないものだが、その人の口から出た
言葉でその正邪を判断できなければならない)、と「言葉」の果たす精妙な働きを述べて終わってい
るのです。‥‥要するにこの書全体が、人や社会や国をも動かす力を持つ「言葉」の重要性は強調
してもし過ぎることはないことを伝えようとしており、また文章構成そのものがそれを示すもの(型)と
なっている、と言ってもいいでしょう。西洋哲学が言葉(概念)の分析を主眼としているのに対し、「論
語」は言葉の価値追求に重きを置いていると言ってもいいでしょう。それだけに各章に無駄な言葉が
極力排除されているのです。もし「論語」が冗漫な言葉で溢れたものであれば矛盾この上ないものに
なってしまったのではないでしょうか。そしてこれらすべてがこの「論語」というタイトルに込められてい
ると言えそうで、やはり奇蹟的な書と言う以外にないでしょう。
我が国では古くからこの「論語」は最大の教養の書として位置付けられていました。ところが近代の
いつの頃からか隅に押しのけられてしまいました。この事情・背景については色々言えるでしょうが、
一言で言えば西洋の教養書と入れ変わってしまったということでしょう。近代化の旗印のもとに、民
主主義、資本主義が導入されてきた過程で「論語」は過ぎ去った封建時代を象徴する教養書として
扱われてしまったのです。本来の和魂漢才が和魂洋才に変わってしまったというわけです。日本人
の短慮と言ってしまえば簡単ですが、ここに時代の流れの怖さがあると言えるのでしょう。
「時代の精神」がいつも正しい判断をすると思うのはとんでもない誤謬で錯覚です。むしろ誤る確率
は50%くらい、つまり五分五分のものだと言うのが事実に近いのではないでしょうか。
「時代の精神」の正邪は100年単位でしか判断できないものかもしれません。今は明治の近代化か
ら一世紀半になろうという時点ですが、政治にも経済にも漂う閉塞感は「時代の精神」の転換の兆し
と言えるかもしれません。

2012年5月18日 (金)

「言葉」‥24

さて「言葉」シリーズの前が「私」でした。ここでいやが上にもやらなければならない議論が、
「私」という「言葉」とは何であるのかです。これまでの話から当然ですが、「私」とは、みずか
らの存在感(存在意識)に対してつけた音声言葉「わたし」のことです。
「わたし」の使い始めの頃は(今でも時々そうしますが)指を自分に向けながら「わたし」と発音
したのではないでしょうか(ここで古代の発音が「わたし」だったのかあるいは他の発音だった
のか等は問題ではありません)。つまり相手との対話の場面において自分を指し示す言葉とし
て「私(わたし)」が使われたということです。端的に言って言葉「私」とはこのこと、即ち相手に
自分(私)を認知させる音声信号のことであるということで、この定義以上でも以下でもないこと
になるでしょう。
「私」シリーズで「私」が何か分からないと再三述べましたが、このように説明すれば悩む必要
もまったくなかったことになり、これだと私がやったのは悩むポーズ(悩む振り)だったことにな
るかもしれません。しかし考えてみればそれは最初からあった前提(すでにれっきとした言葉
として「私」を使っているにもかかわらず「私」が何か分からない、そういった意味での悩み)な
のであってこの定義を知って悩みが解消するなら世の中に苦労などありません。
「私」が何か分からないとは「私」という言葉が分からないのではなく、「私という私が何か」分
からないということです。‥‥そして、そう、これは「感覚の質感(感覚)」を問う「クオリアの問
題」と同じで、またまたこれかという話なのです。しかし逆に、「クオリアの問題」も「言葉の問
題(:言葉とは何か、言葉に実質はあるのか、あるとすればそれはどんな実質か、‥‥)」で
あるということになるわけですから、こうして「言葉の問題」を掘り下げることが避けられなくな
るということです。
しかしながら、「ものごとの言葉による喩え」として言葉を使っている段階では誤謬(誤解)や
悩みは生じませんが、言葉による言葉の解釈(二段階思考)をやり始めた途端に、私たちは
迷路に入っていくことになります。前に述べました「ゼノンのパラドックス」はその典型例と言
えますし、人間は紀元前からこのことに気づいていたわけです。
ところで、東洋では西洋以上にさらに古くからこれに気づいていた証拠と言えるものがありま
す。それは孔子の「論語」です。御存知の通り「論語」は極端に少ない言葉の中に驚くべき含
蓄(意味)が凝縮されて出来上がっています。漢字文でもよほど気をつけなければ冗長に流れ
易い点は他の言語とまったく同じなのですが、ここでは言葉の持つ誤謬に流れる特質はみご
とに抑制され、逆に言葉の理想の形が追求され構築されているといっていいでしょう。今さら
ではないことですが、何という奇蹟的な書であったかと言う以外にありません。

2012年5月15日 (火)

「言葉」‥23

再び「言葉」のテーマから離れた等身大の話を一つ。
10日ほど前、毎週通っているカルチャースクール帰りの夕方の電車のなかで、混雑しては
いないものの空席はなく、立ってつり革につかまり外を眺めていましたら、目の前に座って
いた中学生か高校生の少年がいきなり立ち上がり「どうぞ!」と私に席を譲ろうとしたので
す。私はあと2つ目の駅で降りるので、とっさに「ああ、大丈夫いいですよ」と断って立ったま
までいたのですが、逆に少年は恥ずかしそうな顔になったので、私は内心、少年に悪いこ
とをしてしまったなと後悔したのでした。私は正直なところ、これほどはっきりと席を譲られる
体験は初めてだったので少し狼狽していたのです。自分では分からないものの人から見れ
ば、くたびれた、座りたげな顔をしていたんだなと思わないわけにいかなかったのです。
やがて降りる駅が近づいた時、いつになく気をつけながらヨロメカないように出口の方へ歩を
進めたのでした。少年は目をつぶったままでした。そしてこれからは電車でつり革につかま
るときは、本の立ち読みを忘れずにやるように心がけようと思ったのです。立ち読みしている
人間は少し年寄りでもシッカリしている印象があって逆に声を掛けづらいと思われるからです。
それと以前ここで述べましたように、ぼう然とした老人を目にすると理由は分かりませんが私
はムカついてしまうので、反対にそう見られたくないなとも思うからです。
‥‥誠に年寄りの心理は(これがどれほど私に特有かは不明ですが)始末の悪いショモナイ
ところがあるものです。さらに輪をかけてショモナイことに、近く予定がある旧会社仲間との飲
み会でこれがネタ話になるのはほぼ間違いないのです。‥‥オイどうだオレはこの間こんな
ことがあったぞ、え?お前もか、ハハハ、このクソジジイ!ガハハハ!(もう聞こえるようです)

2012年5月12日 (土)

「言葉」‥22

今急に問題になりだした射幸心ゲームのことをお話ししてみましょう。
この問題の底流にあるのはSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)のシステム環境から生ま
れた社会現象というものです。ニュースによれば当局(消費者庁)は「射幸心をあおる仕組みの
ゲーム商売を規制する」とありました。ウィキペディアから引用しますと、“射幸心とは、幸運を得
たいという心理状態ではあるが、多くの場合においては「幸運によって他人よりも幸せに恵まれ
たい」と思い期待することである。ただし、根拠の無い自信で自分だけが幸運を得られると思い
込んでいる者もおり、これらの人々は幸運を得ようと、投機や投資や賭博や期待値の低い事業
に興じ、浪費する傾向も‥云々‥”とあります。しかし少し身の回りを見渡しますと、例えばコン
ビニやスーパーでの買い物、ネット通販、航空券の予約購入などあらゆるものにポイント制が付
いています。希望に基づくシステムとは言え、直接の費用がなくメリットだけが後から発生するよ
うに見えるため大部分の人が利用していると思われます。たかが1ポイント=1円というような塵
のようなオマケですが、また塵のようで目に見えませんが、これも紛う方ない「射幸心商売」です。
世の中には最初から「ギャンブル」であると明示してサービスを提供している商売が数多くありま
す。株式投資、宝くじ、競馬、競輪、競艇、パチンコ、‥‥そして問題のガチャゲームです。問題
となったきっかけは、子供がガチャゲームで数十万円のチャージを受けてしまったことが頻発した
からのようですが、これは正確には支払能力のないものが高額の射幸心ゲームにはまって社会
問題化したということです。経済学的に言えば「財政破綻問題」ですが、これを政治的(道徳的)
観点で「射幸心の規制」と言い換えたものです。
しかし最初に言いましたように、これは社会インフラとも言えるものになっている「SNS」の本質に
根差すものです。やはりウィキペディアから引用しますと、“SNSとは「人と人とのつながりを促進・
サポートする、コミュニティー型の会員制のサービス、あるいはウェブサイト」のことである”となっ
ています。つまり今日のコンピューター(ネット)社会の日常的環境のことと言っていいでしょう。
私は、今さらこんなことを規制するのはやめろと言いたいのではなく、「義憤」がしたいわけでもあ
りません。この規制をどういう見地から、あるいはどういう価値観から行なうか、またこれをどう見
極めながら行なうか明確な政策意図を分かり易く示すことが、規制実施と同時に必要だと言いた
いのです。これは今の政権に始まったことではありませんが、付け焼刃的、泥縄的政治には見
切りをつけてもらいたい、ノーアイデアの行き当たりばったりはもういい加減にしてくれと言いたい
のです。
疑いなく、これは破綻に向かってまっしぐらに進んでいる国の財政状況のアナロジー(類比)でも
ある出来事だと言っていいからです。

2012年5月 9日 (水)

「言葉」‥21

通常の意味での言葉は、人間を個人的にながめても系統的にながめても、いずれにしても生得
的なものではありません。生まれつき言葉を具えた人間など唯一人として存在しませんし、親の
言葉が直接その子供に遺伝することなどありません。親、家族、学校、社会から、要するに環境
全体から生涯にわたって言葉は習得されていくものです。
もちろん年齢とともに言葉を忘却していくのも事実ですが、日常的な暮らしのなかで習慣的に(会
話・読書・テレビ視聴等とともに)言葉の習得・補充が行なわれているため完全に忘れ果ててしま
うことは自然に防がれていると言っていいのでしょう。
私も50歳前後から失語症気味となり、例えば言いたい言葉がとっさに出なかったり、久し振りに
会った知人の名前が思い出せなかったりということが頻繁に起こるようになりました。そしてこの
ことを回りの同年代の人に聞けば多かれ少なかれ同じであることも分かりました。
それにしても、人間の個性とはその人間が発する言葉に象徴されていると言ってもいいでしょう
(厳密には、個性とは容貌・体格を含めたその人間の振舞い全体のことでしょうが)。そしてなぜ
個々人の表明する言葉に多様性があるのかを考えると不思議な気持ちになります。
上記の通り言葉の習得経緯は個々の経緯は別でもみな似たようなものです。特に現代のように
マスメディアが発達し、情報を取得する社会環境が画一的になってきているなかでは、成人の頭
に入っている言葉の数や種類には大差はないと言ってもよく、しかも全員が同じ文法(言葉の使
い方)を使っています。しかしそれでありながら、この世に自分と言葉の使い方が瓜二つの人間が
いることは決してありません。これを遺伝子に基づく個体差のためと言ってしまえばそういうことか
もしれませんが、ほとんど同じ環境・コンディションの下でなぜ言葉の使い方がバラバラになるの
かそれで説明が尽くされてはいないという思いは払拭できません。例えば同じ遺伝子を持つクロ
ーン家畜でも現に一匹々々は異なる行動をしています。これがロボットであれば同一型のロボット
は同一の個性を具え、識別番号が付いてなければ各ロボットの区別はつかないのではないでしょ
うか。やはりこの辺の不思議さは生命体の生命体たる所以(ゆえん)から来るのかもしれません。
あるいは、むしろこれは世の中の現象が時間的・空間的に一回限りのものであって、厳密に同じ
ことが繰り返されることが決してないことと根差すところは同じなのかもしれません。
そして私がこうしてブログを書くのも私が他人と違い、違った言葉を発すると思うから書くのであっ
て、もし書くこと語ることがすべて他人のものと同じにしかならないとすればブログを書く動機が生
まれるはずもありません。

2012年5月 7日 (月)

「言葉」‥20

「ゼノンのパラドックス」の例に見るような、人間の思考が陥りがちな矛盾(誤謬)がなぜ成立
してしまうかについて最も深く探究した哲学といえば近代西洋哲学の極北とも位置付けられる
カントが挙げられます。カントが主著である「純粋理性批判」のなかで述べている、理性が感性
との関わりにおいて現出させるアンチノミー(二律背反)として描き出したものが最も名高いも
のではないでしょうか。
その概要だけ言えば、それは正命題(例えば、世界は時間的始まりがあり空間も有限である)
と反対命題(世界は時間的な始まりがなく空間も無限である)とが言葉によって両方とも矛盾
なく真であることが説明できてしまうというものです。あるテーマについてまったく逆の結論が、
いわば正々堂々と説明がついてしまうというわけです。
カントはそこで人間の認識を主導する主体である理性というものの働き方を描いています。
人間理性の本性として具わっているのでそもそも避けることができない「錯覚」により、論理的
に誤謬推理を行なうのだというのです。理性というのは天然の錯覚名人だということです。
そして、ものごとの現れ(=現象)は実態的にはうそもまこともなく、表面的な真偽は人間の理
性が決めているものだとします。それでありながら理性が決める「現象の真偽」の普遍的な根
拠は実はどこにも存在せず、ただものごとを説明する規範(カテゴリー)があるのであって、そ
れは理性の下僕として立ち働いてこの規範を使いこなす悟性(=知恵)のなせる技だとするの
です。
ところで、カントは感覚器官が受容した知覚作用により人間にとっての「現象」をもたらすことと
なる原初的なものごとを「物自体」と呼んでいます。そのとき「物自体」の追求は不可能で人間
の知覚が及ばない「あるものX」とするのです。なぜ知覚が及ばないのかは感覚の源を探ること
だからで、例の「クオリアの問題」と同じです(またこの話になってしまいましたが)。
また、カントは「言葉がものごとの喩え」というような切り口はまったく念頭に置きませんでした。
この理由を私が勝手に邪推してしまえば、この18世紀の頃、聖書に言われる「始めに言葉あり
き」(言葉は神が作った)にメスをいれることなど思いもよらないことだったからでしょう。
カントは「理性理念」のフィールドに「神」や「魂の不滅」といった概念が入ることを極力排除する
ことはやりましたが、「言葉」そのものの存在経緯を問うことはまともにキリスト教に対する冒瀆
となってしまうことだったからなのでしょう。

2012年5月 4日 (金)

「言葉」‥19

前から気がついていることですが、私がやっているのは言葉が何であるかを言葉で解明しようと
していることで、それはそもそも堂々巡りではないのかという疑問があることです。求めようとする
ことを求めようとすることで説明するのは論理的矛盾で、誤りではないかという点です。
しかしそれを認めてしまえば言葉が何であるのか永久に不明なままです。そして言葉=思考で
すから、何かを(言葉で表される何かを)考えることがそもそも矛盾であるということになり、さらに
おかしなことになってしまいます。
従って、人間は言葉を持つようになるとともに言葉を言葉で理解し説明することもするようになった
と言っていいのでしょう。あるいはそれができたからこそ、その想像を絶する便利さがあったからこ
そ言葉は人間社会で揺るぎないものに定着していったと言えるのでしょう。そこに矛盾を感じるこ
となどまったくなかったに違いありません。
言葉は「ものごとの言葉による喩え」ですが、「ものごと」を文字通り再現することはできないので、
この起っている「ものごと」を描写して他人に伝達する上でこれに勝る直接的な手段はありません。
人間を瞬時に動かしてしまう言葉の持つ偉大な力はその直接的伝達力にあると言えそうです。
結局のところ、私のやっていることもその延長線上のことに過ぎないというわけです。あるいは少
し前に述べましたように、言葉というものはその発生論的経緯(ものごとを音声で喩えた言葉とし
て使われ始めた)からして堂々巡り(トートロジー)の本質を具えているのかもしれません。それは
無意味どころか人間的創造の源の姿と言っていいでしょう。
ここで極端な思考テストをしてみましょう。人間が今まで使っていた言葉を一挙に失ったと想定し
てみるのです。その時には、私達が何ができなくなるかを考えるよりも、何ができるかを考えるほ
うが容易なのではないでしょうか。今できている身の回りのほとんどのことが不可能となり、数十
万年前と言われる人間の野生の状態に置かれることになると考えればいいでしょう。野生状態と
は、食って寝て捕食してまた食って寝て‥‥を生まれてから死ぬまで繰り返していくことが基本
でしょう。もちろん今使っているような言葉はなく、発する声は唸ったり吠えたりの、それはつまり
動物の鳴き声と同じものでしょう。‥‥現在に比べてこの何という彼我の差でしょうか。
ついでに衒学じみた話をすれば、原人類の学名をホモ・エレクトス(Homo erectus:直立する人)、
現人類をホモ・サピエンス(Homo sapiens:知恵のある人)と言いますが、造語ですがホモ・ロク
ウウトス(Homo loquutus:話す人)とすればより文明的な意味があると思いますが。

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