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2012年6月

2012年6月28日 (木)

「顔」‥5

顔写真を撮る時「はい!チーズ」と声をかけ笑顔写真を作ろうとするようになったのはいつ頃から
でしょうか。カメラメーカーかフィルムメーカーが仕掛け人だったと思いますがテレビコマーシャルで
「チーズ!」が連発されたのを思い出します。その後はレクレーション時の(結婚式の時の家族写
真でも)集合写真の撮り方の定番となりました。アメリカでは身分証明書写真も笑顔がベースだ(
本当かどうか知りませんが)ということでこのチーズ顔にこだわる人が最近は増えたように思いま
す。私などはアメリカかぶれも行き過ぎるとここまで来るかという思いで、逆に苦虫を噛みつぶした
顔を時にはしてやります。ある写真家は人物写真は作り顔は気に入らない、あくまでも自然で、人
柄がにじみ出ているものが良いと言っています。私も同感で、普段の生活のなかで見せている無
意識の顔が一番いいと思います(苦虫顔も意識的で不自然ということになりますね)。
高名な画家の人物画(自画像も含め)で「笑顔」は見たことがあるでしょうか。ダ・ヴィンチの「モナ・
リザ」は笑顔ではなく、そこはかとないほほ笑みで、深みのある自然さが伝わるからこそ名画なの
でしょう。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」もしかりで、この少女がニッと笑っていたらと思うと
冷や汗が出ます。「自画像」を多く描いたゴッホも笑顔は一枚たりともありません。耳を切り取るほ
ど人生の深刻さを感じていた画家に、笑顔という概念はそもそも無縁であったに違いないのです。
日本の浮世絵の顔は逆に歌舞伎役者(あるいは遊廓の花魁)の顔であり芸術的な作り顔(仮面)
と考えるべきであって、この顔の追求はそのまま美の追求です。ここにも拙(つたな)い笑顔など
決して出て来ません。ついでに言いますと、浮世絵の女性の顔が江戸時代の女性の美人の基準
だなどという俗説はとんでもないピント外れでしょう。これは仮面であり「おかめ・ひょっとこ」に通じ
る種類の顔です。素顔を隠し、哀しみを隠した作り顔なのです。それは浮世絵師の思いやりの産
物だと言えるでしょう。
私は笑顔が嫌いだと言うつもりはありません。思うに「笑い顔」は一瞬の顔で、発作的な動作とし
ての顔であり持続的な不断(普段)の顔ではありません。感情が吹き出した顔です。同じ意味で
その正反対が「泣き顔」です。従って、証明書に使う写真としてはどちらも不向きと言わざるを得ま
せん。あくまでも不断の顔に価値があるのです。
‥‥それにしても最近の総理の顔は「ドジョウの泣き面(ツラ)」ではないですか?
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2012年6月26日 (火)

ノーアイデア

私の庭作りは基本的にノーアイデア(こんな庭を作ろうという方針がない)です。強いてこじつければ“混沌”です
かね。

「顔」‥4

私がサラリーマン時代に購読していた日経新聞にはしばしば企業の「フェース分析」が掲載
されていました(現在も掲載されていると思いますが)。それは企業の業績(売上高、利益水
準、成長性、好不調、安定性など)が人間の顔で表現され、その時点の企業の経営状態が
簡単に(感覚的に)理解できる便利なものでした。
「顔グラフ」とも言われるそれはマンガチックな絵で、例えば眉の上がり具合を増収率、目の
大きさを1株当り利益、顔の幅を経常利益額、顔の長さを売上高、鼻筋の濃さを自己資本比
率、髪の多少を増益率‥‥という具合に表わしながら企業の顔が描かれるのです。数値的
分析で企業業績を判断することが必要な場合もありますが、細かいこと抜きで一目で調子を
知りたい場合はこれが一番手っ取り早い方法だったのです。この手法を発案したのが個人か
研究機関かは分かりませんが20年近く前に紙面に登場してきたように記憶しています。当時
は思っても見ませんでしたが、今考えますと、「顔社会」あるいは「顔文化」とでも呼んでもよ
さそうな人間社会に浸透したいわば「顔判断」の習慣を実にうまく取り込み、反映させたもの
だと感心します。(顔グラフの例を写真添付しておきました)
これはまた、ある事実を下敷きにした考え方に基づいていることが分かります。それは人間の
顔の表情は共通語だというものです。つまり顔の特定の表情は特定の意味を表わす点で言
葉と同じ地位にあるものだということです。有り体に言えば、人間の喜ぶ顔、悲しい顔、怒った
顔、元気のない顔、活気のある顔、等は誰が見ても同じものだということです。この前提がな
ければ「フェース分析」の汎用性はなく便利なものとはならなかったはずです。
顔の表情を読むことはやさしいようで難しい、難しいようでやさしいものと考えられますが、そ
れ以前に誰にでも分かる共通部分が顔の表情には存在しているということです。考えてみれ
ば、顔の表情の習得と言葉の習得とは、人間は生まれて以後ほぼ同じ時期、同じプロセス
の中で行なわれると言えそうです。人の顔の喜怒哀楽の表情を学び覚えるのは、普通は言
葉を伴う状況でのことが多いはずです。幼児の身辺には常に、笑った顔と笑い声、怒った顔
と怒り声、悲しい顔と泣き声、そして何よりも何かを伝えようとする親の真剣な顔と真剣な声
があったでしょう。そのようにして目の前の顔と声の有様を何度も体験するなかで顔(表情)
の意味を知るようになっていったわけです。
私は従前から、人の表情に関してはどんな作家によって書かれた精妙な心理描写の文章よ
りも、たとえ一筆描きでもマンガ家の一コマの顔画の表現力には敵わないと感じていました。
それは顔の表情はそれ自体が言葉なので、それをさらに言葉と(文章化)するよりもむしろマ
ンガ家のデフォルメした顔画の方が、人が持つ「顔判断」知覚に直接うったえる点が大きいこ
とが理由と言っていいでしょう。もちろんそれを描けることが才能であるのも間違いありません
が。
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2012年6月24日 (日)

「顔」‥3

人間の個人(Aさん、Bさん‥‥)を確定するのはその個人の体のどの部分でもよく、あらゆ
る振舞いのどれでもいいはずなのですが、私たちは99%以上顔を使っていると言えます。
これはやはり顔が個人の情報を表わす上で最も好都合な構造をしているからなのでしょう。
前に言いましたように顔の作りは目、鼻、口を中心に数百万種類(あるいはそれ以上)の情
報量を構成し、文字通り一見してどこの誰であるか見分けがつきますから顔で個人を区別
することが一番現実的ということになるのでしょう。
ココログのアバターも顔が中心で手足や衣類はオマケのようなものです。アバターの顔はモ
デルタイプを基本にしますが、それでも目や眉を使い分け、描き分けることにより、まったく同
じアバター顔になっていることはないようです(当然似た顔はありますが)。ココログではイニ
シャル名だけでも資格はできるはずですが、わざわざ顔を作らせるのは現実の人間生活の
習慣から、参加者を「顔」で示す方がこのココログ世界の馴染み易さを生み出すからだと考え
られます(ココログのスタッフに聞いたことはありませんが)。私がキラ、ポチやいいね!つぶ
やき、を行なう時アバターの顔を「人格者」として見てこれをやっています。アバターは架空の
人間なのに本物の人間であるかのように相手として対応してしまいます。これはアバターの
向こう側に現実の人間がいるからというのも理由ですが、私が錯覚しているのも間違いあり
ません。アバターである限りは相手はアニメのキャラと同じであるのにアバター=本物の人
間と見ているのです。その点では出会い系サイトと質的には同じといっていいでしょう(意図
する目的は異なりますが、相手を生身の人間と見る心理面では違いはないでしょう)。これ
を聞いて怒る方がいらっしゃればアバター上のお付き合いはお止めになればいいのです。
‥‥それにしても女性アバターはなぜ美人ばかりなのでしょうかね‥‥。
「人を見かけで判断するな」、「人は見かけによらない」といった格言はほぼ真理(その通り
である)と言っていいと思いますが、見かけ(外見、容貌)は顔が代表します。出立(いでた
ち)と言えば装いも含めた見かけのことでしょうが、やはり顔が代表していると言っていいで
しょう。この格言には二つの反対の意味が込められているように思われます。一つは顔では
人の中身(人格、性質、善悪、能力‥)は分からないということ。もう一つは人は(人を)顔で
判断するのが現実だということです。
最初の方が正論で後の方は正論でないように見えますが、後の方の事実がなければこの
格言は存在しません。従って、一言で言えば、「人は顔で判断するのは間違いなのにいつ
も顔を見ている」ということです。神様は何故こんな人間を作ったのでしょうかね。
Photo
23日に登った「瑞牆山(みずがきさん)」です。

2012年6月22日 (金)

「顔」‥2

顔は人間を区別(特定)する代表的部分です。本質的には手でも足でも背中、腹、要するに
体のどこでも一人ひとりすべて異なっていますから、人間を区別するのにそのような体のどの
部分でもよく、顔だけに頼る必要はないはずですが、私達の人間の生活においては顔がもっ
ぱら使われています。顔がすべてと言ってもいいかもしれません。例えば運転免許証、パス
ポート、履歴書に貼るのも顔の写真だけです。
もちろん、犯罪捜査の世界では人間を区別(特定)する方法(証拠)として、顔だけではなく指
紋や声紋が使われてきましたし、さらに最近においてはDNAが伝家の宝刀の地位に置かれ
た観があります。これらはみな、科学技術の進歩により人間の区別を検出する方法が案出・
援用され採用されるに至ったものです。写真がなかった昔は「人相書き」だけという頼りない
ものだったのですが。
しかし犯罪捜査は別にして、日常の生活において個々の人間の話題・事柄に関しては顔で
すべて済まされていると言っていいでしょう。ですから私たちは「人物」や「人格」という言葉か
ら、いや、単に「人」という言葉からまず連想するのは顔です。そして顔の次が名前でしょう。
そして顔と名前が一体化して特定の個人が指し示されることになります。しかしながら名前と
は言葉(共通文字)そのものですからそれは記号であり、厳密には個性ではありません。本
質的な個性(=唯一無二性)を組成しているのは顔の方です。最初に言いました通り、もとも
と人間の個性とは顔だけではなく体の振舞い全体のはずですが、そのすべてを顔が代表して
しまうのです。これは考えてみれば不思議で面白いことだと思います。
前回お話しましたように「顔の作り」は眉、目、鼻、口、額、頬、顎、耳、顔幅、長さ、等々で成
り立っています。物理的人体で言えば首から上の頭部前面の部分を指します。この頭部前面
にこれらの要素が配置され特定の輪郭に納まっている、それが「顔」です。
そして「私」が他人に対して示す最大の印象は私の「顔」であると言って間違いありません。

2012年6月21日 (木)

「顔」‥1

今回から「顔」についてお話ししてみます。
顔とは面白いもので、一度でも仕事、学校、遊び等である程度の付き合いをした人の顔という
ものはなかなか忘れないものです。名前は忘れても顔は覚えているという経験を誰でも持って
いると思います。名前とは言葉のことですから、顔は言葉より覚え易い、あるいは言葉は顔よ
り忘れ易いと言えるかもしれません。ただ、顔と言っても、道ですれ違った人の顔、電車で向か
い側に座っていた人の顔、たまに行くコンビニの店員の顔、交番の警官の顔、などは覚えるこ
とはまずありません。自分が覚えるのは上記の「ある程度の付き合いをした人の顔」です。
しかし「ある程度の付き合い」がどの程度で、どの種類の、どの形の付き合いであるか、は決ま
ったものではないようです。仕事に行く途中で道ですれ違うだけの人でも毎回顔を合わせている
うちに覚えてしまいますし、コンビニも行く度に同じ店員であればやがて顔を覚えます。特に学
校や職場で年単位で顔を合わせていた人の顔はまず忘れることはなくなるようです。もっとも、
顔を忘れたら会っても忘れたことに気付かないので以上のような言い方は正確なものではあり
ません。従って、顔は名前よりも忘れないというのは、一般的にそう言えそうだということです。
そうした上での話です。
しかしながら、なぜ顔は名前よりも忘れにくいのでしょうか。昔読んだ本には、顔によって敵・味
方を識別し記憶するのは原始時代からの生存本能によるもので、簡単には忘れない仕組みが
動物として具わっているためだと書かれていました。当時はそれで納得したように思ったもので
したが、最近は、その忘れない仕組がどういうものであるのか気になるようになりました。と言う
のは最近は(この10年位ですが)やたらと「顔は知っていても名前が思い出せない」ことが多く
なったからです。そしてふと思い至ったのが、名前は固有名詞なので相手一人に一個の情報の
ものだが、顔は情報として名前とは比べものにならないほどの量があるためではないかというも
のです。
つまり顔の情報とは「顔の作り」ですから、眉、目、鼻、口、額、頬、顎、耳、顔幅、長さ、等々の
各部分に色々な種類の情報を持ちます。例えば眉ならその濃淡、上がり下がり、幅、長短、目
ならその大小、丸い細い、まぶたの一重二重、上がり下がり、目の間の幅、鼻ならその高低、長
短、太い細い、穴の形、口ならその大小、幅、唇の形、‥‥という具合に各部分が何通りかの種
類を持っているので、その組み合わせである顔全体では何万通り、いや何百万通りの種類(情
報量)が存在することになり、記憶はそれを保存していることになります。加齢で記憶力が落ち、
各部分の記憶の何割かが忘却していくのでしょうが、それでもまだ多くの記憶情報は残されるわ
けで、逆にまったく消えてしまう可能性はほとんどなく、だから一度覚えた顔は忘れることがない
ということになります。
これは最近某カルト教団の指名手配犯が相次いで逮捕された事件で、犯人が加齢と整形(?)で
大分顔が変わっているように見えたにもかかわらず、結局手配写真に似ていることが通報の決め
手になった事実でも示されたと言えるのではないでしょうか。

2012年6月13日 (水)

「言葉」‥30

言葉が思考のパターン(型)を形成する、あるいは言葉が思考の素材であるのはどういう仕組
みなのでしょうか。ものごとを言葉で喩える(表記する)ことがなぜ思考なのでしょうか。言葉は
一語発しただけで思考と言えるのでしょうか。
ここで再び赤子の発達過程を見なければなりません。人間は生まれるまでは言葉を具えては
いません。これが生まれた瞬間から言葉の習得がスタートします。オギャーという産声が言葉
の第一歩目です。まず泣き声を発することで自分の存在を主張し、空腹を訴えます。これは意
思と言うより本能による振舞いです。その振舞いは生きている証です。それがなければその赤
子は(常識的には)死んでいるということになります。そしてこの赤子の振舞いに対し母親は乳
を与えます。赤子は授乳により満足(満腹)すれば眠り、空腹を覚えれば目を覚まし再び泣き
出して授乳を要求します。つまり、空腹→泣く→授乳→眠る→空腹→泣く→授乳→眠る→‥
‥この繰り返しにより赤子は成育していきます。
言うまでもなくこの段階では泣き声が言葉です。泣く以外に空腹の意思表示の方法はなく、こ
れを本能によって行ないます。つまり言葉の原初的な契機は本能が司っていると言えます。
言葉の成り立ちは本能に基づいているということです。より正確にはこの時期の赤子の振舞い
全体が本能に基づいているということでしょう。
しかしこの本能的振舞いの反復の過程で、泣くことにより(声を出せば)授乳が得られる、とい
う知恵を赤子は具えると言って間違いないでしょう。即ちこれが赤子にとって第一段階の言葉
であり、意思表示であり、思考であると言えます。泣くこと(自分の声)が自分への授乳をもた
らすという関連を知る、これは紛れもない思考です。しかしそれは同時に乳をくれる人(母親)
の体温、声、匂い、肌合いによりその人の存在を知覚し、その人の同一性も微妙に感知しな
がらのものでしょう。従って、この赤子の思考はこの人に守られた環境と一体化したものとして
あり、赤子の中で独立した振舞いとしての(成長した人間の)思考があるとまでは言えず、まだ
ぼんやりとした段階の思考だということでしょう。
やがてもう少し日時が経ち視界もひらけてきますと、人が出す音声を聞きながらその音声が出
る口を絶えず見るようになり、その人が出す音声と同じ音声が出るよう繰り返し真似をすること
になります。そしてその時は既に言葉・思考の第二段階に入っていると言えます。それはもち
ろんまだ、ア~ア、マンマ、オッパイ、ダーダ、ワンワン‥‥の類の幼児語で明確な言葉には
なっていませんが、その音声が赤子にとって、ある「ものごと」を表わして(意味して)おり、その
限りでは泣き声とは異なる言葉となっていることは間違いありません。その言葉の数も急速に
増えていき、より正確な言葉(ものごとを指し示すもの)となっていくでしょう。
この段階の思考の型は単純な「これは(あれは)☓☓だ」が基本です。つまり「ものごと(これ、
あれ)☓☓」の認知を示すものです。即ち言葉☓☓=思考☓☓です。もっともより正確には赤
子は「これ」「あれ」という代名詞をまだ知らず、あるものごとを「これ」とか「あれ」で示す思考は
まだ具えていないはずです。従ってこの時は、「☓☓だ」という極めて単純な形でしょう。
言葉の数は増えていくので「☓☓だ」、「△△だ」、「○○だ」、「□□だ」、「◇◇だ」、「▲▲だ」
‥‥の羅列ということになるでしょう。そして同じものごとがあれば、「(あ!)□□だ」、「(ん?)
▲▲だ」と再認するでしょう(あ、んは内感語です)。しかしこれで既に立派な思考と言っていい
のです。この羅列から、「☓☓と△△だ」や「○○のあと▲▲だ」へと進み、さらに「□□だから
◇◇だ」や「▲▲なのに☓☓だ」へ発展するのは時間の問題だからです。そして「と」、「のあと」、
「だから」、「なのに」等の接続詞的な言葉(思考)は、その用法を人を見ながら、真似をしながら
習い覚えていくのはご承知の通りです。
そしてこの段階で既に、これができるのは人間だけなのです。

2012年6月 9日 (土)

「言葉」‥29

ブログ(あるいはインターネット)の効用について考えてみます。
昔は趣味を同じくする人同士が当人達が気が付かぬ間にすれ違っていたことを「ドブ板の上ですれ違って
いた」などと言っていました。両者が後々それぞれの分野で名を成したような時、どちらかの人が感慨を込
めて「私はあの頃☓☓さんと裏通りのドブ板の上ですれ違っていたのかもしれない」などとエッセーで書い
たりしたのです。特別な趣味や興味に駆られて、遺跡や、図書館や、博物館に足を運んで意図する調べ物
をした時期があって、それが☓☓さんも同じような探訪をやっていたらしいと後で分かってそのような感想
を吐露するということです。実際顔をはち合わせたにしてもお互い見ず知らずですから口を利いたはずもあ
りませんが、事後的に運命的な偶然というものに、一種畏敬の念を込めてそう言っていたのです。
現在はこの言い方はすっかり影を潜めました。まず第一にそのようなシチュエーションが現実的ではなくな
っているからでしょう。道端の下水は地中にかくれてしまってドブ板などまず見なくなりましたし、調べ物の
ために目的地に足を運ぶ前に、インターネットを主とする手軽な情報アクセスが身近になったからです。図
書館などは(私のような)暇人の時間つぶしや、中学・高校生の勉強仲間の溜まり場になっています。
そして今はブログという、趣味を同じくする人同士の交流サイトがあります。これにはより直接面談に近い
ツィッターも含めてもいいのでしょう(私の息子などはもっぱらこれです)。ここでは、ドブ板の上ですれ違っ
ていたかもしれないなどと感想が入る隙もなく、その気になりさえすれば自分と他人の趣味や興味の共通
事項に対する検索がいつでも可能です。もちろんそれも始めは手探り状態からなのでしょうが、勘違いや
見当外れがあってもそこに後ろめたさ、恥ずかしさなどはまずありません。自分も他人もイニシャル名です
から「責任」とは縁がなくまったくお“気軽”なものです(軽薄とも言えますが)。
考えてみたらこれは非常に強力な「言語発信機能」を持つと言えそうです。そしてこのブログサイトという場
所(空間)は、経済的な様々の物品が交換取引される「市場」との類比で「言語市場」とでも言えるものです。
つまり経済取引市場ではなく言語取引市場です。これは一定以上の金銭が条件とされるようなことがない
だけに、好奇心、検索意欲、自己顕示欲、要するに「生きている欲望」さえあれば言葉を発信して参加でき
るわけですからこの言語取引市場は世の中で最も巨大な市場となる(既になっている?)かもしれません。
事実、例えば最近において中東など世界各地で政治革命が起こっていますが、概ね共通している背景とし
て、インターネットの「言語市場」を足掛かりにして反体制勢力がアッと言う間に組成されたという側面があ
ったと言っていいようです。欲望や不満は「言葉」を介してのみ伝わるものですから、現代においてこのイン
ターネットの「言語市場」に勝る政治・社会世論を作り出す好都合なインフラはないということでしょう。
しかし、このインフラは国によっては動乱の契機をもたらしますが、逆に世論に多様性をもたらし結果的に
バランスのとれた平穏な社会状況を作るとも言えます。偏った情報の一方通行は原理的に構築し続ける
ことが不可能だからです。テレビやラジオは電波規制により国家が監視できますがインターネットは監視
など無縁でその本性は基本的に無政府状態のものと言う以外にないものです。
今やどの国においてもその社会を動かす「時代の精神(=時代の潮流)」はこのインフラの上に切り離し難
く乗っかっているのは間違いありません。そして国家がこの潮流を意のままにすることなど出来るものでは
ないと言っていいでしょう。
いまから50年前頃テレビが急速に家庭に普及し始めると、国民の総白痴化などと言われたものですが、
社会に娯楽的雰囲気があまねく行き渡ったのは事実ですが決して白痴化したわけではありません(社会
の変化に際して比喩的に警告が発せられることは常のことなのでしょう)。そして、このインフラがもたらす
新時代はどのような時代精神を生み出そうとしているのか、これは誰にも分からないことです。皆が個人
の世界に籠り、誰からも干渉されない形の生活を現出させつつ同時にこれが社会化(共通インフラ化)して
いるという、この傾向を自ら増幅していると言えるだけです。

2012年6月 5日 (火)

「言葉」‥28

「言葉」のテーマとはいえ、また身の上話のようなことを言ってみましょう。
いつの頃からか私の声が相手に聞き取りにくくなって来ました。相手とは会社の職場仲間だったり、
友人だったり、家族だったりでしたが、会社をリタイアした最近はもっぱら家族、特に息子と娘です。
「オヤジ、何を言ってんのか分かんないよ」とか「え、え~?ゴニョゴニョだって!」と聞き取れない声
の部分をマネて冷やかすのです。これはつまり私の声に力がこもらずテンションが下がって、相手に
はっきりと声が届かないということです。「腰が抜けてしまう」と言いますが、「声が抜けてしまう」と言
えばちょうどぴったりの声なのでしょう。自分では分かりませんが。
これは実は20年くらい前に会社の上司に私が時々感じていたことでした。当然仕事の上での話でし
たが、ある部分が「ゴニョゴニョ」と聞こえてしまうのです。最初のうちは、「え、何でしょうか?」ともう
一度発言を促すような返事をしていたのですが、これが度重なると、上司に対してのことなので何度
も聞き直すことはしなくなり、よほど重要なことでもない限り「はあー、そうですね」と話を合わせて、聞
き取れなかった言葉は適当に推量して済ませていたものです。実際、重要なことをいくらなんでも「ゴ
ニョゴニョ」と言うはずもなかったからです。
‥‥それにしても、「落ち着いた声」というのは、これは話す内容が相手にしっかり伝わった声が落ち
着いているのです。これに対し「抜けた声」とはいわばストンと落ちてしまって相手に届かない声なの
です。それは独り言のような声だと言えるでしょう。そしてこのこと(声が抜けていること)は自分では
気が付かないのです。
何故このようなことが起こったのか考えてみますと、それは会社での声(よそ行きの声)と家での声
との使い分けの習慣に原因があるのではないかと思います。家での声は緊張のない安心し切った
声であり、これは誰でも無意識にそうなっているはずです。家に帰ってからも会社での声を出してい
れば自分も家族も寛(くつろ)げなくなってしまいます。つまり家に帰れば声のテンションが下がるの
は自然なことなのです。これが私のような人間はある年齢に達すると、この使い分けの落差が極度
に大きくなり、普通の話し方をすると「声が抜け」てしまい、怒ると(怒りっぽくなってもいて)必要以上
に声が大きくなるのです。
こんなわけですから私は周りの者(今は家族ということになりますが)にとって誠に始末に負えない人
間だということになります。そしてこれに対しては、私が自分で意識してゴニョゴニョ話さないように気
を付ける以外にないことなのです。その訓練のため例えば声をはっきりと出しながら散歩するのもい
いでしょうが、これは何か勘違いされそうな気がします。
‥‥そして最近試みにやってみたことが一つあります。それはカラオケで歌うことです。それもセリフ
入りの歌が特にいいようです。これを費用の許す範囲で、飲み過ぎないように、しばらくやってみよう
と思っている次第です(これは実験ですからマネはお奨めしません)。

2012年6月 1日 (金)

「言葉」‥27

謎かけのような話をやってみましょう。ものごとを喩えるものが言葉であることが間違ってないもの
とします(これを定義とします)。ここでものごとの数は無限にあるのでしょうか。ものごとの数が無
限であれば当然言葉の数も無限にあることになります。今私の手元にある「大辞泉」(小学館)に
は22万語が収録されているとあります。世の中のものごとの数が22万個であればこれは絶望的
な少なさですが、言葉は別の言葉との組み合わせで新たな言葉を作ります。分節された最低単
位の言葉(単語)の数に限りがあっても、その言葉の組み合わせは無限に近いといってもいいわ
けで、従って言葉が表わす世の中のものごとの数も無限にあると言えそうです。これなら絶望する
必要はありません。
それではものごとの数と言葉の数ではどちらが多いでしょうか。定義からは、ものごとに応じて言
葉が付されますから、言葉の数はものごとの数を越せないように思えます。しかし言葉の組み合
わせによって、見たことも聞いたこともない言葉(つまりこの世に存在しないものごと)を作ることは
簡単にできます。例えば、1万度のお茶、月に渡る橋、空飛ぶ地下鉄、男の子宮、カメムシの還暦、
クジラの三角関数、猫の天皇、ドジョウの総理大臣(これはいますね)‥‥と限りなく作れます。
これらは一見して荒唐無稽な言葉です。つまり意味のないデタラメ言葉に見えます。それはこれら
の言葉を現実性という尺度から見るからです。非現実的ということです。しかし、非現実的という判
断ができるのはその言葉の意味を知っているからです。それは当然のことで、組み合わせ言葉は
非現実的であっても一つ一つの単語は意味のある独立した言葉(ものごとの裏付けがあるもの)
だからです。
しかし、ものごとの裏付けのないような言葉も多くあります。人間が作り出した観念用語、抽象概
念と呼んでいる言葉です。例えば、自由、平等、権利、義務、‥‥神、魂、天国、地獄、宇宙の始
まり(ビッグバン)、‥‥平和、正義、勇気、とこれも数えあげればきりがありません。これらは外部
的・物的なものごととは別に人間の頭の中だけにある言葉といっていいでしょう。
もちろん「ものごと」をこの世のすべてのことの意味にとれば、抽象概念もものごとのうちになり、言
葉はすべてものごとの裏付けがあるものになります。そして、最初に述べた「ものごとを喩えるもの
が言葉である」という定義も、人間が音声を発する場面というものが物的・外発的/心的・内発的と
いった区別はなく、文字通り「すべてのこと」に対して自分達が発した音声が長い時間を経て共有
化(言葉化)したというものですから、これもこの考え方だと言えます。
しかしさらに一歩進んで、主客転倒して、言葉で表されたものがものごとだという言い方まですると
すれば、言葉を離れては「世界」は無いかのような様相を呈することになります。そして「言葉で表
された」とは「認識された」と同じこと、「ものごと」とは「対象(現象)」と同じことです。縮めて言えば
「認識されたものが対象である」という、近代の認識論哲学のテーゼのようなものとなります。

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