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2012年7月 3日 (火)

「顔」‥6

私が「顔」をテーマにしたのは、自分も現代の「顔文化」に感化され毒されてもいると思ったから
です。やはりこれはテレビの影響は絶大なものがあると感じざるを得ません。昔、アメリカの政
治家(大統領候補)は講演会やテレビに出演する時に化粧をするということを聞いて笑ってしま
ったことがありますが、今考えると日本より10年以上は早くテレビが普及したアメリカで政治家
が「顔」の与える印象を重要視したのは当然のことだったのだと理解できます。
すべからく戦略、演出好きの伝統的背景があり、演説の言葉も練りに練って選択して作りあげ
ていく中で、「顔」の印象はその言葉とセットになって政治家にとって非常に重要なアピールポ
イントであったに違いないからです。1960年にケネディーがニクソンを僅差で破って43歳という
歴代で最も若い大統領に選出されたのはその象徴的な出来事だったのです。この時あたりか
ら政治の世界では内容より見かけ(内容は結果が出てからこしらえればいい)、いわば哲学的
貧困が芽生え始めていたと言えるかも知れません。そして映画俳優や宇宙飛行士が政治家に
なる時代となっていったわけです。
日本でも60年代の終わり頃から、およそ政治に無縁な俳優・芸能人やスポーツ関係者がまず
参議院(全国区)から政界に出てくるようになりました。有権者の方も農村議員(自民党)と労
組議員(社会党)が政界を牛耳る状況に対する食い足りなさから、「面白半分」にタレント候補
者に投票し当選させたのです。これらの候補者の政治的主張の内容ではなく(内容と言える
程のものはなかったが本音はよく喋った)、簡単に言えば、テレビを中心とするマスメディアに
「顔」が売れていたから選んだのです。私もちょうどその頃有権者となったのでした。
冷静に反省すれば、「本音と建前」社会への鬱屈とした不満が戦後の高度経済成長の裏面で
蓄積されていった帰結としての社会現象であったと言えます。時を同じくして全国に吹き荒れた
大学紛争もその一つの表われであったと思います。
この「本音と建前」とは、戦後日本の民主主義が標榜した人間が不安なく安心して暮らせる「平
和で明るい社会」の実現に皆が一丸となって進むという目標(建前としての正義)を第一に掲げ
る一方で、家族とともに暮らしを立てて「日々飯を食って」行かなければならないのも事実なので、
お金を稼ぐことを最優先しなければならない、その為には少しくらい胡散くさいことには目をつぶ
り我慢した方が自分や家族、世の中にとって結局は得である(本音としての打算)、というもので
す。この「本音と建前」とは絵に描いたような矛盾に他ならなかったのですが、これが当時の日本
全体を統べる原理(暗黙の社会倫理)だったということです。これは表向きの姿を変えても今も続
いている社会原理だと言っていいと思いますが、この時期(戦後20年を経過した時点)にこの価
値観に対して初めて疑問が提示されたわけです。それはその時なりに社会に対する爆発的なア
ンチテーゼの表出だったのですがこの矛盾の解消へと結びつくことはなく、その後40年間このよ
うな爆発を見ることはなく今に至っています。
‥‥いつの間にか「顔」の話が政治的・社会現象論的な話の方に逸れてしまいました。これは
私の気持ちにおいてもこの矛盾が解消されていない事情のせいかもしれません。いくら「顔」を
問題にしたところで上の疑問に対する解答は得られないのでしょう。

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