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2012年7月

2012年7月29日 (日)

「顔」‥13

前回に引き続き「いじめ」について話します。
もし遊びの中で「からかい」「いじめ」にブレーキがかからなければ、これは遊びの範囲を逸脱し、
傷害・暴力でありれっきとした犯罪です。従ってこれを抑止する能力がこのトラブル当事者・関係
者になければ直ちに司直の手に委ねなければなりません。この対応の手遅れが深刻な事態を
招来する可能性があるからです。この最悪のケースとなってしまったのが最近の大津市で起き
た事件でしょう。この事件に限らず最近の「いじめ」事件のほとんどが、このような「いじめ」は犯
罪なのだという認識が学校を含む地域社会において希薄だったと言わなければなりません。
最初は遊びの中での「いじめ」であったとしてもブレーキのかからなくなってしまった「いじめ」は
犯罪だということです。「いじめ」の噂があったり「いじめ」の相談事が持ち込まれていたにもかか
わらず、この事実確認に手間取る、あるいは確認した形を作るだけで事実上何もしないで済まし
てしまっているのはこの犯罪意識の欠如以外の何ものでもなく、それ自体が犯罪である余地も
あるでしょう。そうであれば、その結果の見通しを怠った関係者の責任は非常に重いと言わなけ
ればなりません。
世界に目を転じれば、中東を始め、東ヨーロッパ、アフリカ、中国周辺、東南アジアには戦争状
態の地域が数多くあります。戦争とは相手の国民や民族、反対勢力を殺戮することです。日本
も70年前は戦争の真っ只中にいたわけです。そして戦争とは国をあげて、国民全体が犯罪心
理に染まることです。相手を「悪」と位置づけ、自分を「正義」と位置づけて殺戮をし合うのが戦
争です。例えば、アメリカは「正義」のために日本に原爆を投下し一瞬のうちに30万人の日本人
を殺戮しても犯罪を犯したという認識は皆無でした。それが戦争の本質です。
そして国家レベルで「いじめ」を実行すること、それが戦争に他なりません。
では、日常生活の中で「いじめ」が抑止できないのはどのような理由によるのでしょうか。
人間の深層心理(本質)の中に戦争(いじめ)をしたいという要素が含まれているのでしょうか。
私はこれをあながち否定できないことのように思います。例えばスポーツはすべてこれを代理
(昇華)するものと言って間違いありません(オリンピックというこの壮大なイベントがまた始まり
ましたが)。ギャンブルやゲームというものも突きつめれば同じ性質のものです。目を社会に転
じれば、四六時中競争下に置かれている企業ビジネスも「市場」を戦場にした戦争を行なって
いるという側面を認めないわけにいきません。もっと歴史に思いを巡らせれば、17世紀初頭に
誕生した資本主義(東インド会社)が西欧列強国の植民地政策と一体化し、常に戦争を下敷き
にしながら、戦争を契機にしながら発展していき、20世紀には二つの世界大戦を引き起こしまし
た。国民的利害の点から経済戦争は武力戦争と容易に結びつくことは事実として否定できない
ことだったのです。
これは特に「いじめ」の問題を大げさに政治問題にこじつけたということではありません。普通に
連想を働かせれば思い至ることであるように思います。「いじめ」は人間の本性に根差す性向で
あり、根絶やしにすることなど不可能なことだと言っていいと思います。「いじめ」「競争」「殺戮」
「戦争」は人間の性向からは同じ範疇に属する、同一線上に位置するものと極論できます。
それだけに「いじめ」は軽んじることはおろか、その局面において人間に教化を加えることを決し
て怠ってはならないものなのです。それは人間の宿命だという以外にないでしょう。

2012年7月27日 (金)

「顔」‥12

子供の時に初めて自分の顔を認識した経験は誰にでもあると思います。私の場合は、まだ小
学校に上る前の5、6才の頃だろうと思いますが、10才近く上の長兄か次兄(私は兄3人姉1人
の5人兄弟の末っ子)に「お前は黒ん坊そっくりで本当に変な顔をしている」とからかわれ親の
化粧台の鏡に写る自分の顔を見て、なんて変な顔なんだろうと思ったのが最初でした。最初
のきっかけがこれでしたので、その後小学校3年頃まで自分の顔の劣等感が続き、遠足や学
芸会の写真に写った自分の顔を見るのもいやだった記憶があります。なぜこんなことを言うの
かといえば、自我の認識が自分の顔の認識と時期的に重なる、と言うよりも自我認識=自分
の顔認識という気がするからです。「死」の認識を持つようになったのもその頃で、死=自分の
不在、という想像によって底なしの不安を掻き立てられたものでした。といっても私は遊びの方
も忙しく普段は劣等感や不安は頭から去っていて、精神生活に浸ることの多い子供だったとい
うことでは決してありません。今になって記憶の糸を手繰るとそういうことだったなと言えるので
す。これがどこまで正確かは分かりません。ただ私は数十年間この記憶を反芻してきたのだと
言えます。
ここで今問題になっている「いじめ」の話をしてみます。
私は幸い深刻な「いじめ」に合ったことはありませんでした。深刻な「いじめ」を犯したこともなか
ったと思います。この加害者でないかどうかは相手次第なので、昔の友達の中に「私はあなた
から本当にひどいいじめに合った」という人がいないという保証はないのでしょう。しかし、兄弟
間を始め子供の遊びの世界は、からかい、小突き、諍(いさか)い、は切り離せないものです。
そもそも子供の遊びは「○○ごっこ」の範疇のものです。鬼ごっこ、チャンバラごっこ、缶蹴りご
っこ、隠れんぼ、ままごと、野球や相撲も真似ごと(ごっこ)です。その「ごっこ」を本気で、真剣
にやる点にスリルも面白味もあったのでありこれが子供の遊びの本質と言えます。
子供の遊びには「からかい」「いじめ」の要素を必ず含みます。鬼ごっこや隠れんぼの鬼は「い
じめられ役」です。鬼は誰かを捕まえて交代していきます。「すばしこい子供」は鬼になりづらく、
なってもすぐに誰かを鬼にすることができます。「すばしこくない子供」は鬼になりがちで、鬼か
ら抜けだせないことにもなり、そのときは「いじめられ状態」が続き鬼が泣き出して遊びが終い
になったのです。泣きだした鬼をさらにからかい続ければ純粋の「いじめ」ですが、何らかのブ
レーキがかかってそうはならなかったのです。そのブレーキとは遊び仲間の年長者や、番長
(ガキ大将)といったリーダー格によるブレーキで、またそれがいなくても何となく面白くなくな
りそれで終わったのです。たまに泣いて帰った鬼が母親に連れられて戻ってきたりすると、リ
ーダー格の子供に「☓☓ちゃん一緒に遊んでね」と言い置いていったのであり、するともう泣い
ていたことなど忘れ、すぐに別の遊びに入っていったのです。このようなことを繰り返しながら
昔の子供は精神的にタフになっていったのです。年長者や番長は自分も同じような経験があ
って鬼の「悲しさ(痛み)」を知っているので、優しさを発揮できたのでした。
では最近の「いじめ」の現場では何が起きているのでしょうか。昔と今では何が違うのでしょ
うか。明らかに違う点は、遊びの「からかい」「いじめ」にブレーキがかからないということです。
つまりブレーキをかける子供がいないのです。より正確には遊びの中でブレーキをかける術
(すべ)を知らない子供ばかりということでしょう。これは子供の遊ぶ環境の彼我の差とでも言
うしかないかもしれません。昔は遊びの中で、からかい・からかわれ、いじめ・いじめられなが
ら、徹底的には痛みつけてはしまわない術、間合い、を知らないうちに会得していたのですが、
今の子供は経験からそれを学ぶ(会得する)機会は消滅していると言えそうです。
これは一つの案ですが、昔のような遊び環境を人工的に作る(演出する)というやり方が考え
られます(昔の遊びは自然発生のものでした)。例えば毎週1回特定の時間帯(2時間位)に
全校をあげて遊びの時間を設け、それも上級生と下級生が入り混じる形にする。遊びは缶蹴
りでも、隠れんぼでも、あるいは新しい遊び方でもいいでしょう。そして遊びに伴うケガくらいは
大目に見ないといけないでしょう。重要なことは、この効果を短兵急に求めてはならず年単位
のものと踏まえることです。なにせこの効果(目標)とは、上級生は下級生をいたわり、下級生
は上級生を崇敬することを身に備えるという一点だからです。先生は上級生中の上級生として
遊びに混ざり子供と意識を同じにすることもポイントでしょう。最近の若い先生がそもそもこの
経験がないと思われるからです。
単に就学時間数を減らすだけの「ゆとり教育」が失敗だったのであれば、このようなことをする
ことの方が本当の「ゆとり教育」だと思うのですが。

2012年7月22日 (日)

庭をスッキリさせてレイアウト変更です。

「顔」‥11

もしこの世界に「顔」がないとしたらということを想像してみようとします。しかし、その想像は
そもそも不可能かも知れません。何故なら「顔」のない世界を、単に首から上のない人間社
会の風景を想像すればいいというわけではないからです。首から上がなければ目もないの
で風景は見えません。それどころか、五感のうちの視覚、聴覚、味覚、嗅覚がないことにな
りますので人間の認識世界が今とはガラリと変わってしまいます。触覚機能だけの生き物
の世界、いわばアメーバのような認識世界になると言えます(アメーバでも視覚や味覚に相
当する知覚能力を持つでしょうからそれよりさらに原始的な生命体の世界を想像しなければ
ならないでしょう)。もちろんアメーバの認識世界と言ったところでそれは喩えであって、アメ
ーバの認識世界を知ることなど実際できません。それくらい今に比べると不自由な世界にな
ってしまうだろうという想像(恐れ)に他ならないということです。
従いまして、逆に「顔」は人間の認識作用の根幹に位置していることになるでしょう。以前、
自分も現代の「顔文化」に感化され毒されてもいると言いましたが、「顔文化」とはそんな表
層的なものではなく、はるかに本質的なところに根差すと言わなければならないようです。
いや、それは想像の仕方がいけないのだ、例えば、目は肩の前、耳は背中、鼻は腰、口は
腹にあり、脳も腹の真ん中にあると仮定すれば「顔」がないことは満たされることになると言
う人がいるかもしれません。しかしそれは今の顔機能を首から下の上半身に分散させて移し
ただけで今度は上半身全体が「顔」になった(グロテスクですが)ということで、「顔」がないこ
とにはならないことになります。今と様相は異なるとは言え、やはり「顔文化」はあることにな
るのではないでしょうか。
ではその「顔文化」の根差す本質的なものとは何でしょうか。‥‥それは「顔」が、ものごとの
喩えである言葉を成り立たせているものだという点ではないでしょうか。まず直接的には目や
耳や口(声帯、舌、口蓋等)がなければ言葉は生み出されません。それはもちろん脳を中枢と
する神経組織の連携作用が裏側にあってのことです。その上で表側で「言葉」を演じるのは
「顔」の諸機能なのです。その時は声だけでなく眉、目、鼻、頬、顔の筋肉等が総動員されて
います。つまりは、五感が得た知覚を音声言葉として示すことは「顔」によって、「顔」において
為されると言うことができます。考えてみれば人間的行動の役割の過半数を顔が受け持つと
言っても大袈裟ではないのかもしれません。
初めに述べました、個人の識別というものを99%「顔」に頼るという人間社会の習慣はこれと
裏腹のことと言っていいのでしょう。

<散歩の途中にあった花です>
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2012年7月17日 (火)

「顔」‥10

先日横須賀の軍港めぐりに家人と行ってきました。45分程の時間で横須賀港に停泊している米軍
と自衛隊の軍艦(この日は潜水艦も含め計15隻程が停泊)を遊覧船で観船したのです。軍艦に乗
船はもちろんできずせいぜい200m余りの近さから眺めるものでしたが、初めてということと、ガイド
さんの親切な説明もあり、感心する点もありました。
国の「顔」に当たるものは幾つも数えあげることができます。まず、文字通りの日本人の「顔」、その
日本人が話す「日本語」、日の丸の「国旗」、君が代の「国歌」、政治家の代表「総理大臣」、国事の
祭司「天皇」、経済という意味で「日銀総裁」や日本の「国債」さらに通貨「円」、スポーツ選手やスポ
ーツチーム、文化や技術もそうかも知れませんので、その意味では「イチロー」、「なでしこジャパン」
や何人ものノーベル賞受賞者達もそうでしょう。まだ他に思いつくものもあるはずです。
そして軍隊(軍事力)は間違いなく国の「顔」です。その中でも軍艦は近代国家のシンボリックな「顔」
の一つだったのです。これは(この議論の)好き嫌いにかかわらず認めざるを得ない事実でしょう。
さらに、今さら自衛隊は軍隊ではないなどと言う人はいないでしょう。
日本の「顔」とは、ある意味では日本人だけが決めるものではなく、周りの外国人が「あ、これは日本
だ」と決めるものでもあると言えます。つまりそれは一般的な「価値(評価)」と同じで絶対的なものと
言うよりは相対的なものだと言えます。従って上にあげた色々な日本の「顔」の価値も、日本人自身
が思う価値と外国人が思う価値とが大きく異なることが少なくないのが現実でしょう。
ここで批判を覚悟で私の意見を言えば、日本の軍隊の「価値」は日本人が思うより大分低く、政治家
の価値はどん底を這っており、技術・文化・スポーツは内外の評価に差はなく、経済(特に「円」)は
日本人には不思議なほど外からの評価が高い、ということだと思います。「日本語」や「国旗」「国歌」
「天皇」のまともな評価というものは内でも外でも今まで聞いたことはありません。
私は最初の二つ、軍隊と政治家を今すぐ立て直せと言うことが実はできません。そもそもこの二つは
離れがたく結合しているものです。政治=軍事は人間の有史来変わることのない法則なのですが、
この法則から意識的に目を逸らしてきたのが戦後67年の歴史であり、今に至る社会、経済、文化、
技術等の成果はこの経緯と切り離しては考えられず、自分もその中にどっぷり浸かってきたわけです
から、これに異議を唱えることが自己矛盾(自己否定)であり、いわば天に唾すればそのまま自分の
顔に落ちることを知るからです。
私は今さら自分の内側と外側の生活環境を変えることに憶病なのかもしれません。これを初めからや
り直せと言われたら何とも言いようもなく気が重く億劫な心持となる予感はかなり強くあります。何故
ならこれは日本社会に強く根付いた「本音と建前」の矛盾を断ち切れということに他ならないからです。
‥‥そしていまの政治家は与野党を問わず同じ精神状態なのではないかと危惧します。彼らとて、
私と同じ社会的環境(生活環境、教育環境、世論環境)で育ったことは間違いないからです。

<白っぽいのが米国の、黒っぽいのが日本の軍艦(潜水艦も)です>
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2012年7月12日 (木)

「顔」‥9

40歳になったら「顔」に責任を持てという言い方があります。アメリカ第16代大統領リンカーンの
言葉です。人生経験を経て40歳にもなれば顔にその人の人間性が現れる。その顔でその人の
人間の尺度が図られるというわけです。40歳になったら誰でも責任が生じるという意味ではあり
ません。40歳になるまでの生き方の結果として顔が作られるということで、顔を作るのが目標で
はなく、いい生き方をすることが目標なのです(従って化粧品会社や美容店がこれを言うのはそ
れだけで本末転倒です)。
ではどういう顔が責任の持てる顔なのでしょうか。ここからはいわゆる「人相学」になりますが、
自信にあふれた顔か自信無げな顔かと言えば自信にあふれた顔の方でしょう。しかしここから
先が難しくなります。自信にあふれた顔とはどのような顔でしょうか‥‥。幸せそうな顔か不幸
そうな顔かと言えば幸せそうな顔の方でしょう。しかし苦労を知る顔か知らない顔かと言えば苦
労を知る顔の方でしょう。まずここで行き詰まります。苦労を知る顔は幸せそうな顔をしているで
しょうか。苦労が顔に刻まれたら翳りのある顔になるのではないでしょうか‥‥。それから正直
そうな顔か嘘をつきそうな顔かと言えば正直そうな顔の方でしょうが、ポーカーフェイスとは感情
が表に出ない、上手に嘘のつける顔のことです。頼り甲斐があるのはこちらの方でしょう。あと
頭の良さそうな顔か悪そうな顔かと言えば良さそうな方でしょう。‥‥しかし昔から天下の秀才、
歴史的人物となった人の顔は美貌の持ち主というより「変な顔」が多いような気がするのは私の
思い過ごしでしょうか。ソクラテス、孔子、チンギスカン、豊臣秀吉、‥‥例外は絵で見る聖徳太
子くらいです。
このようにして「責任の持てる顔」を求めていろいろな判断ポイントで試しても、ことごとく矛盾に
陥ってしまうのが関の山です。いったいリンカーンは何を基準に「顔判断」したのでしょうか。逸
話によりますと、ある人物をスタッフとして推薦されたが「人相の悪い」のを理由に断ったところ、
案の定その人物は後年犯罪に関わり捕まったとのことです。リンカーンの顔判断が正しかった
ということですが、それは偶然だったとも言えます。もしリンカーンが雇っていたら犯罪に関わる
こともなく、いい仕事をしたかもしれません。実際この逸話が就職の面接試験に影響を及ぼし
ている可能性もありそうな気がします。
「顔」からある傾向を読み取ろうとするのは、そのこと自体が独特な癖(傾向)なのではないで
しょうか。

<ペットのドジョウです。10cmに成長し愛嬌のある顔をしています>
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2012年7月 8日 (日)

「顔」‥8

前回パンダの顔のことを話しましたが、ペットはみな一匹一匹個体ごとに別の顔を持っています。
自分の飼っている犬や猫は他家(よそ)の犬、猫と違う顔をしています(ペットの方も主人の見分
けができるのが普通のようです)。そしてペットの顔どころか性格も違っており個性的人格(犬格、
猫格?)があることも認めているのではないでしょうか。これはペットに限らず、虫や草花に至るま
で細かく観察すればすべて個性を持つことが分かります。
我家のミニトマトはご近所のミニトマトと同じ店から同じ頃購入した同じ種類のものですが枝ぶり
や花・実の様子は異なっているのが分かります。むかし子供の時に捕まえた私のノコギリクワガ
タは友達の持っているノコギリクワガタと大きさは同じでも明らかに顔(姿)が違うのが分かり、一
時的に一緒の虫カゴに入れてもいつでも見分けがつきましたし、どこか性格(気性)まで違う感じ
がしたものです。
また私が小学校・中学校の頃は(田舎なので)家にニワトリがいて年によって3~4羽から7~8
羽飼われていて(もちろん卵が目的です)、その世話は子供の私と兄の役割だったのですが、私
たちは一羽一羽に名前をつけていました。それはボス、マサ、ミサ、ナミ、タメ、ヨシ、ゴマ、ジメ‥
等でその多くは近所のオジサン、オバサンの名を拝借したもので、ついでに隣の家のニワトリにも
名をつけていました。毎日見ていれば顔、声、姿、性格まで違っているのが分かり区別がついた
のです。当時はどの家でも夕方1~2時間ニワトリを鳥小屋から出して屋敷内の庭で遊ばせ、暗
くなれば鳥たちは自分でかってに鳥小屋に帰ってきたものです。そして時々私たちは隣の家のニ
ワトリを敷地の境目あたりにエサでおびき寄せて我家のニワトリと戦わせて楽しんだのです。ニワ
トリのケンカは一回がせいぜい数秒から数十秒のあっけないものでしたがテレビで見る相撲より
は余程面白かった記憶があります(闘鶏という娯楽が昔からあったのは知りませんでした)。
それから動物園では一種類の動物の数がどんなに多くてもみな名前をつけて世話をしていると
聞きます。毎日世話をしていてその動物の顔を憶え心の交流もできてくれば名前がつけられる
のはごく自然なことなのでしょう。
草花も心底から可愛がり世話する人はやはり名前をつけるのではないでしょうか(孤独なバアさ
んが部屋で育てている草花を名前で呼ぶという小説を読んだことがありますが、私はまだ今のと
ころ金魚にも植木にも名前はつけていません)。

<我家のペットのパグ、金魚、植木です>
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2012年7月 7日 (土)

「顔」‥7

上野動物園でパンダの赤ちゃんが生まれて話題になっています。
パンダは確かにかわいい、愛くるしい動物です。
さてパンダはこの愛くるしさで得をしているんでしょうか、損しているんでしょうか。
すぐに、世界中で可愛がられ大事にされているから、得してるという答えが出てきそうですが、
近年に至るまでその可愛らしさのため乱獲され、もとはアジアに広く生息していたのに今では
中国のごく限られた保護区域に1,200頭くらいが生き残る絶滅危惧種となってしまったことを考
えれば非常に損をしていると言わざるを得ないでしょう。しかし、この損得は人間の価値基準で
言っているだけでパンダ自身は何も語ってはいません‥‥。
さて、パンダはなぜかわいいのでしょうか?なぜも何もあるか誰が見てもかわいいにきまってい
る!と言われれば、ハイその通り、以外に返す言葉はありません。しかしなぜ誰が見てもかわ
いいのかとやはり聞きたいのです。なぜあのパンダ顔をかわいいと感じるのでしょうか(逆にイ
ボイノシシをなぜ醜いと感じるのでしょうか)。哲学的言えば、この世になぜ美学的判断力があ
るのかということです。答えはやはり無いということになるのでしょう。
これはこれまでにくどいほど説明しました「感覚の起源を問う」ことだからです。「青い」ものがな
ぜ青いのか、「甘い」ものがなぜ甘いのか、この感じが何者なのかは決して分からない、それと
同じです。ただ言えることは、美的評価はあり、それは人に共有されるということです。
それは価値観にも通じるもので、私達に幸福をもたらしますが不幸ももたらします。歴史的な文
明を生み出してきましたが悲惨な戦争ももたらしてきました。‥‥え~?その縮図が「パンダ」
なのか!‥‥そうなのです。だからパンダは得と損、幸福と不幸を一身に背負っているのです。
かわいいと同時にかわいそうなのです。‥‥だからパンダはますますかわいいのでしょう。

<ひねくれ過ぎたかもしれませんから、青みがかった涼しげな花でもご覧ください>
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2012年7月 3日 (火)

「顔」‥6

私が「顔」をテーマにしたのは、自分も現代の「顔文化」に感化され毒されてもいると思ったから
です。やはりこれはテレビの影響は絶大なものがあると感じざるを得ません。昔、アメリカの政
治家(大統領候補)は講演会やテレビに出演する時に化粧をするということを聞いて笑ってしま
ったことがありますが、今考えると日本より10年以上は早くテレビが普及したアメリカで政治家
が「顔」の与える印象を重要視したのは当然のことだったのだと理解できます。
すべからく戦略、演出好きの伝統的背景があり、演説の言葉も練りに練って選択して作りあげ
ていく中で、「顔」の印象はその言葉とセットになって政治家にとって非常に重要なアピールポ
イントであったに違いないからです。1960年にケネディーがニクソンを僅差で破って43歳という
歴代で最も若い大統領に選出されたのはその象徴的な出来事だったのです。この時あたりか
ら政治の世界では内容より見かけ(内容は結果が出てからこしらえればいい)、いわば哲学的
貧困が芽生え始めていたと言えるかも知れません。そして映画俳優や宇宙飛行士が政治家に
なる時代となっていったわけです。
日本でも60年代の終わり頃から、およそ政治に無縁な俳優・芸能人やスポーツ関係者がまず
参議院(全国区)から政界に出てくるようになりました。有権者の方も農村議員(自民党)と労
組議員(社会党)が政界を牛耳る状況に対する食い足りなさから、「面白半分」にタレント候補
者に投票し当選させたのです。これらの候補者の政治的主張の内容ではなく(内容と言える
程のものはなかったが本音はよく喋った)、簡単に言えば、テレビを中心とするマスメディアに
「顔」が売れていたから選んだのです。私もちょうどその頃有権者となったのでした。
冷静に反省すれば、「本音と建前」社会への鬱屈とした不満が戦後の高度経済成長の裏面で
蓄積されていった帰結としての社会現象であったと言えます。時を同じくして全国に吹き荒れた
大学紛争もその一つの表われであったと思います。
この「本音と建前」とは、戦後日本の民主主義が標榜した人間が不安なく安心して暮らせる「平
和で明るい社会」の実現に皆が一丸となって進むという目標(建前としての正義)を第一に掲げ
る一方で、家族とともに暮らしを立てて「日々飯を食って」行かなければならないのも事実なので、
お金を稼ぐことを最優先しなければならない、その為には少しくらい胡散くさいことには目をつぶ
り我慢した方が自分や家族、世の中にとって結局は得である(本音としての打算)、というもので
す。この「本音と建前」とは絵に描いたような矛盾に他ならなかったのですが、これが当時の日本
全体を統べる原理(暗黙の社会倫理)だったということです。これは表向きの姿を変えても今も続
いている社会原理だと言っていいと思いますが、この時期(戦後20年を経過した時点)にこの価
値観に対して初めて疑問が提示されたわけです。それはその時なりに社会に対する爆発的なア
ンチテーゼの表出だったのですがこの矛盾の解消へと結びつくことはなく、その後40年間このよ
うな爆発を見ることはなく今に至っています。
‥‥いつの間にか「顔」の話が政治的・社会現象論的な話の方に逸れてしまいました。これは
私の気持ちにおいてもこの矛盾が解消されていない事情のせいかもしれません。いくら「顔」を
問題にしたところで上の疑問に対する解答は得られないのでしょう。

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