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2012年8月12日 (日)

「顔」‥15

ところでプルーストの「失われた時を求めて」の重要なモチーフが「性的倒錯」であることは間違
いないことでしょう。普通は扱いにくいテーマだと思われるのですが、この長編小説においては
「ソドムとゴモラ」という直接的に取扱った箇所に限らず、これが鬱然とした通底音の役割を果た
しています。主人公の「私」は性倒錯者ではありませんが、保養地バルベックの海岸での出会
いがきっかけとなりやがて恋人となったアルベルチーヌが同性愛者ではないかという疑惑に終
生「私」が苛まれたり、傲岸な貴族シャルリュス男爵が実は同性愛者であったこと、作曲家ヴァ
ントゥイユのバイオリン奏者の娘が同性愛者であったこと等々はこの小説の重要なモチーフです。
これはプルースト自身が同性愛者だったことのなせる技であると言えるでしょう(日本の小説で
言えば三島由紀夫の「仮面の告白」や「禁色」におけるモチーフと同じです)。
そしてこの長編小説の基本構成は、主人公「私」の子供時代を起点とする膨大な回想録である
ということになっています。この小説のタイトル「失われた時を求めて」はまさしく回想録であるこ
とを示していますが、しかし「私」ではないスワンが主人公となったり、「私」が現場にいるはずが
ない場面が延々と語られたりするなど、この基本構成の上から矛盾する箇所がいくつも出てくる
のです。だが回想録とはいえこれは創造作品であり、多様な登場人物の内面を「私」が語るとい
う文体では描けないのが当然であって、これは作者のプルーストが意図して行なったことである
のは疑いありません。
そしてさらに、人間の「感性」の問題こそがこの小説の本当の(影の)主人公だったと言えるので
はないかという側面があります。主人公「私」が過去を想起していく中でいつも必ずその重要な
契機となるのは視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚にまつわる記憶なのです。いわばこの五感の記
憶を頼りにこの回想録の全体ができあがっているからです。いったい人間の五感がこれほど総
動員された小説を私は他に見たことがありません。いくつか例をあげてみますと‥‥冬の日に
母親がだしてくれた紅茶に浸したマドレーヌの味、家族との散歩の道すがら初恋の相手ジルベ
ルト(スワンとオデットの娘)に出くわした時の道端のサンザシの花の匂いとジルベルトの黒い瞳
の眼差し、スワンが貴族のサロンで聴くオデットと親しくなるきっかけとなったヴァントゥイユのソナ
タの小楽節、バルベックのホテルでの会食時のスプーンの音、「私」が敬愛する作家ベルゴット
が瀕死の病態で見るフェルメールの絵画「デルフトの眺望」の描写、馬車から見たサン・チレール
の鐘塔の遠景、何くれとなく「私」の顔や腕に触れるシャルリュス男爵の手の感触、‥‥これらは
みな感性的な素材であり、これらの記憶を手繰りながら話が構成され展開していくのです。
そしてそれに伴っておのずとこの小説のもう一つの影の主人公である「時間」の問題が透かし彫
りのように立ち上がってくるのです。「失われた時」とは過去の意味です。さらに想起とはその過
去を現在に活き活きと蘇えらせること、そして「時間」という事実はそういった手続きを重ねていく
仕方以外に把握しようがなく、その場面で(小説を含む)真の芸術の果たす役割の重さをプルー
ストは強調しているように思えます。これは作中でも所々で引き合いに出すカントの哲学の時間
概念(時間とは感性的直観の形式・条件であって直接知覚はできない)を多分に意識したもので
あると言っていいでしょう。
そしてこのように「感性」と「時間」を影の(真の)テーマとした哲学的命題を孕むものだったからこ
そ(作者の死により構成的な未整備が残りながらも)、結論を見出すことが本質的に困難なテー
マにプルーストが生涯を賭して挑んだ畢生の大作として完結していると言うことができます。
(もちろんこれ以外に、19世紀後半のフランス貴族社会の風景、その貴族から召使までの周辺
で使われる言葉=「言語文化」の問題、ドレーフュス事件を題材とした西欧世界の「ユダヤ人問
題」といった様々な重要なモチーフもこの長編には盛られていて、これらを簡単に纏めるのは不
可能なことです)


<インターネットから取り出したフェルメールの「デルフトの眺望」です>

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