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2012年9月 7日 (金)

「顔」‥20

 「顔」以前の「私」の問題のことになりますが、今日歩きながらつくづく思いました。それは、私が何

あることを考えるのはすべて自分の言い訳のため、いわば自己弁護のためにすることなのだと。私は考

ることによって、考えるという行為そのことによって、自分というものの精神的バランスが微妙に維持

れ崩れずにいるのだということをです。ですから私が考えることができなくなった時は、自分という人

は破たんするのだろうということです。自分の思念だけが自分を維持しているのだという、ひょっとす

と綱渡りのような危うさの上に私を含め人間はみな置かれているといっていいのです。従って、極端に

えば自己意識というものもこのことのためだけに具わっているということになります。人のことを

たにしても、それは人のため、人を助けるためではなく、その人に対して自分がどのような間合いにある

かを無意識のうちに計っていて、それはとりもなおさず自己保全のためなのです。

 そうであれば人間がいつもego(=より自分を意識したものとしてそう呼べば)を語りたがるのはま

ったく当たり前のことになります。逆に言いますと、人間は普通の状態ではegoを語らないほうがどちら

かといえば自己欺瞞であるということになります。例えば「これは自分のことではないけれど‥」などの

前ふりはちょうどこのようなもので、裏ではその事案と自分の立ち位置との隔たり度合をしっかり知った

上でのいい方なのです。よく聞いてみれば結局は自分の話なのです。

 ともかく、自分の行動・行為を説明できるのは自分を置いて他にはありません。ここに他人が入る余

地はまったく、微塵もありません。ということは自分が考えることは常に自分にまつわること、つまり自

分のことを四六時中考えているからこそです。これは何がどうあっても否定のしようがない、確固たる事

実です。

 よく使われる道徳的ないい方に、自分のことではなく他人のことを考えろというのがあります。自分の

周りの、家族のこと、友人のこと、社会のこと、人間のこと、つまり他人のことに思いを巡らせと。し

し自分のことを考えずしてそんなことが可能でしょうか。自分抜きで他人のことを考えることなどできる

ものでしょうか。もしできるという人がいればこれ程あからさまな嘘はないのではないでしょうか。他人

のことを考えるとは、直接的にしろ間接的にしろ、他人に対峙する自分なくしてそれは不可能のはずです。

真の意味で他人に成り代わる(思いやる、同情する、同感する、感情移入する、‥‥どのような言葉でも

同じですが)ことは不可能なことです。他人と同質化することは不可能で、他人を考えるのはあくまで自

分あってのことであり、他人のことを考えてもそれは自分というものによる発案なのですから。‥‥その

一方で、自分のことばかりいう人の話は耳障りで聞くに堪えないというかもしれません。あまりにego

目の前で見せつけられると不快になると。しかしその不快感の原因をよく考えてみますと、他人のego

自分(私)に向けられ続けるため自分のegoが登場できないからです。自分のegoが圧れること以上に

不快なことはないのです。従ってそれはその人の話し方の問題なのです。本当にうまく自分のこと(自分

の考え方、感じ方)を話す人の話は聞いていて楽しいものなのです。例えば名人落語などがそれで、そ

れは人に聞かせるための自分の話芸なのです。

  自己犠牲(他人に成りわって自分が死地に赴くこと)が真に行われるときには、その時・その場では

自己意識が完全にすべてを支配しているのであり、他人への思いやり、同感などでは決してないはずです。

しそこに自己意識がなれば、それは思いもよらない事故のようなものといっていいでしょう。例えば

自ら命を絶つ自殺とは100%自己意識のもとでなされるはずのものです。武士の時代に純の自殺(切腹)

を尊んだのは人間のegoが不可侵のものであることが本当に理解されていたからなのでしょう。

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