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2012年9月

2012年9月30日 (日)

「性格」‥6

 今までの話をまとめますと、①「性格」は個人を特定(識別)するためになくてはならないものである

 ②「性格」はそれだけで独立したものではなく、「顔」「名前」と一体となって個人の人格に付着した

抽象的なものである ③「性格」は自分と相手との対面により形作られる相手のイメージ全体のことであ

り、それを「性格」と呼称した言葉である ④「性格」は対面的反応のイメージであり外形的(物体的)

に把握することができない ⑤「性格」は変えられると思われ勝ちであるが現実には意のままに変えられ

る対象ではない ⑥「性格」は知覚的作用である点は「思考」と同じであり、作用そのものの解明は不可

能である‥‥ということになります。

 しかし私達は「あの人は角が取れて丸くなった」という言い方をよくします。多くの場合これは、若い

頃は何かと人を攻撃し勝ちなとげとげしい性格だった人が年齢を重ねて穏やかな落ち着いた性格に変わっ

てきた様子を指して言います。これは上の⑤の「性格」は変わらない、に矛盾するように感じるかもしれ

ません。また犯罪者を懲役刑に処して更生(甦生)させる狙いというものも同様でしょう。これらはどう

考えたらいいのでしょうか。

 これはやはり前回述べましたように、本人を取り巻く人々から求められる「反省」を自分が知識として

汲み上げそれを忘れないでいるということでしょう。本人の記憶が付加された分「性格」も変わったと言

えば言えなくもないでしょう。しかし、「性格」の四角い形が丸く変わったことが目に映るはずはありま

せんし(喩えにしても)、人が本当に別人格に変わり以前の記憶も失せてしまっている程であるとしたら

この人の身内の者にとってそれは悲しいことではあっても決して幸福なことであるとは言えないのではな

いでしょうか。「性格」が文字通り寸断されてしまえば「人情」も寸断されてしまうからです。

 そうであれば、嫌な「性格」の人とは一生嫌な思いをしながら付き合わなければいけないのか。その通

りという以外にありません。とにかく相手に「性格」を変えてくれと要求する方が無理な話なのです。し

かし「適当に付き合う」という言葉もあることですし、社会の中での処世術が悪いわけではありません。

それによく考えれば、嫌な人がいるから好きな人もいる、世の中そういう風にできていると見ることがで

きるのではないでしょうか。

‥‥しかし、うるさい隣国とは「適当に付き合う」やり方ではダメです。真摯に、驕ることもおもねる

こともなく、ひたすら真摯に向き合う以外にありませんね。

2012年9月26日 (水)

「性格」‥5

「あなたのその性格は直さないといけないよ」という言葉(忠告)、あるいはこれに類した言葉を言われ

たことがないという人がいるでしょうか。もしそのような人がいれば聖徳太子並みの秀才か本当の聖人で

しょう。自分でそう言う人がいたら私は即座に「あなたのその性格は直さないといけないよ」と言ってや

るでしょう。‥‥つまり「あなたのその性格は直さないといけないよ」という言葉は「皮肉」の意味で使

う言葉なのです。これを言う人は、普通はほとんど意識もしてないでしょうが、相手の性格が直るとは心

底のところでは思っていないと言っていいでしょう。これを言う人は親切な忠告のつもりのようでいても

真意は非難、難詰という点にあるのであって、相手の人格を認め尊重する意識とは程遠いものです。無意

識にせよこれは毒を含み相手の心を傷つける迂闊な言葉の類と言っていいでしょう(もちろん意識的に、

即ち悪意を持ってこれを言う人もいます)。

 「いや、私はそれを親からよく言われた」と言う人がいるかもしれません。しかしそれは失敗や落度に

対してあなたを悔悛させようとの情からでたもので、「性格」がどう直せるかなどはまず親の念頭になか

ったことでしょう。もしそのとき「性格はどうしたら直るのですか」と聞きでもしたら「自分で考えなさ

い」と言われるのが関の山だったでしょう。親のこのようないわゆる「幾つになっても子ども扱い」に対

しては「私の性格も親からの遺伝でしょう」と時には切り返せばいい話なのではないでしょうか。少なく

ともこの方が親に既に子供は一人前であると認めさせる近道なのは間違いないでしょう(正直のところ、

私もこれをしがちな親ですからよく分かるのです)。

 とにかく「性格」は直す(変える)ことができるものという考え方がほとんど疑いの持たれない通念と

なっているのです。しかし本当に「性格」がいとも簡単にコロコロ変わるものであったら私達は個人の同

一性に確信が持てなくなり、まともな人間関係が成り立たなくなってしまうに違いないのです。そして今

あるこの社会も成り立たないと言っても大袈裟ではないと思いますが、ではなぜ「あなたのその性格は直

さないといけないよ」という言葉を使うことが非常識とされないのでしょうか。‥‥私はこれは「性

格」は変わるものではないことが確固とした事実であることからくる“反語表現”なのだろうと思いま

す。これは「性格」が変わることは不可能であることを知った上での忠告であり、その真意は相手の

「反省」を求める点にあると言っていいでしょう。従って「性格」が簡単に変わり得るものであればこの

言葉は恐らく使われなかったのではないかと思います。言われた者がたやすく行えることを忠告しても

「反省」は生まれません。不可能なことを忠告した時にこそ相手の「反省」が生まれることを最初から踏

まえた言葉であるということでしょう。

 まったく当たり前のことを人に忠告してもそれは「大きなお世話」でしかないからです。

2012年9月23日 (日)

「性格」‥4

 「性格」はオブラートに包んで語る以外にないものと述べましたが、それは他人に対する「気遣い」や

「敬意」だけでそうしているのではありません。「性格」は顔つき、骨格、声のように視覚、触覚、聴覚

といった感覚器官に直接訴えるものというより、会話を中心とする対面的「やりとり」によって自分の頭

の中に映じてくる相手の人間の心理的イメージ(象形)です。それは話し方、聞き方、笑い方、怒り方、

泣き方等の「反応の仕方」全体で形作られたものです。イメージですからその輪郭は明瞭な場合もあれば

そうでない場合もあるでしょう。相手と対面するシチュエーションは一定しませんから、対面する度に相

手の反応は多かれ少なかれ異なり、イメージは固定的なようでいて絶えず変化するものです。しかしその

変化の中に相手特有のパターン、癖がありこれがまたイメージに加わります。そしてこうして累積された

相手のイメージ全体を「性格」とみなしているということになります。こういうと「性格」は受動的に作

られるもののように感じられるかもしれませんが、あくまで自分の中の能動的な働きによって作られるも

のです。日常的な生活体験の中で試行錯誤しながら自分が描き上げていくものだといえます。

 またそのように相手の「性格」を描くときそれは同時に自分の「性格」も描いていることになるといえ

るでしょう。まさに絵の喩えでいえば、自分が描いたAさんの似顔絵は他の誰が描いた絵でもなく自分の

絵(作品)であるというのと同じです。絵の描き方に個性が表れるため、第三者が見れば「ああ、これは

あなたが描いた絵ですね」とすぐに分かるということです。その結果、相手の「性格」といってもそれ

は自分と相手との相互作用のもの、あるいは共同制作のものに位置付けられるといえそうです。従って私

達は誰でもこのことを非常に慎重に、かつ念入りな仕方でやるはずです。なぜならこれはいわば本能的な、

自分を成り立たせる生活方法であるともいえるからです。この「性格」描写をいい加減に、粗忽にやって

しまうことは相手を誤解するということになって、逆に相手からも自分への誤解が向けられ、その結果そ

こに険悪な状況が生まれ最悪はケンカとなり多かれ少なかれ互いに痛手をこうむることになります。しか

しそういうことを含めて色々と手探りをしながら経験し学ぶことが必要だといっていいのかもしれません。

このような「性格」の取扱いに初めから手慣れた人などいるはずもないからです。

 そして、そうした上で分かった相手の(同時に自分の)「性格」は簡単に直したり作り変えたりするも

のではないということができます。肉体的なものであれば鍛え直したり、容貌であれば化粧したり極端に

は整形手術すればいいのです。しかし「性格」はそんな訳にいきませんし、そんな対象のものではないの

です。

 それにもかかわらず「あなたのその性格は直さないといけないよ」という言葉がよく使われるのはなぜ

でしょうか。‥‥

2012年9月18日 (火)

「性格」‥3

 血液型による「性格判断(診断)」というものがあります。一例をあげれば、A型は生真面目で一途、B

型はマイペースで気分屋、O型はお人よしで面倒見がいい、AB型はシャープでちゃっかりしている‥‥と

いう具合ですが、これが日本では根強い人気があります。

 日本ではというのはこんな性格判断を会話のネタにしているのは日本だけらしいのです。物の本によれ

ば、外国でうっかり人に血液型を尋ねたたりしたら正気扱いされず、訴えられる恐れもあるのだそうです。

つまり血液型は外国では極めてクリティカルな(重大な)個人情報(遺伝情報)と位置付けられ、おいそ

れと口外するものではないというのです。ところが日本ではこれが逆で、他人との最も害のない会話が血

液型のネタ話なのです。なぜ害がないのかといえば、この血液型による「性格判断」を誰も厳密には信用

しておらず、また内容的にシリアスな側面がなく冗談話として許容しているからです。さらに日本ではA

型からAB型までには比較的はっきりした分布格差があるものの、1%未満であるような極端な少数派はな

く、どの型でも身近なところにいるからでしょう。私は血液型の「性格判断」に関していえば、日本では

献血の慣行もあり、血液型の公開くらいのことに目くじらを立てる理由はないと考えられており、これは

外国よりも日本のほうが科学的事実を踏まえていてバランス感覚的にも優れているように思います。

また、これもよく聞くことですが、外国(特にキリスト教国)では公の席で「宗教」と「政治」の話

はタブーだというのがあります。これは地中海を取り巻く西洋地域では2,000年以上の昔から宗教と政治

が混然となって文字通り血みどろの戦争を繰り返してきた歴史があり、現在も続いているという事情があ

るからでしょう。日本では「宗教」に対しては開放的で仏教内でも宗派の違いを今はとやかく言いません

し、同じ人が結婚式を教会であげ、正月には神社にお参りをし、お寺で葬式をすることに特にこだわりを

持ちません。「政治」に関しても、特に酒が入れば皆が持論を語り「義憤(ケシカラン話)」のオンパレ

ードになります。せいぜいオカルト的新興宗教に眉をひそめる位のものです。

ともかく日本では、統計的根拠もなく明らかに因果関係もない血液型による「性格判断」が人気があ

り、まず当分下火になりそうにありません。

 個人を特定する重要な要素である「性格」を血液型に絡めて冗談話にも扱ってしまうというのは、それ

こそどういう「性格」からくるのでしょうか。‥‥それは、以前述べましたように「性格」とは「顔」、

「名前」と一体になった個別の人格に付着した抽象的なものだからではないでしょうか。目に見える形と

して把握することができないため、また「変わらないようで変わり、明確なようで曖昧なもの」であるた

めオブラートに包んで語る以外にないものだからではないでしょうか。

現代の心理学や脳科学によって「思考」の仕組みの解明が進んでいるわけではありません。それどころ

か、いよいよ究明不可能な「永遠の謎」として確立されつつある観すらあります。「思考」と「性格」

は表裏一体のものでしょうから「性格」の解明も永遠の謎ということになります。いかに科学が発達し

ても解決できない事はいくらでもあります。最も代表的なのは「未来の予測」ですが、「性格(思考)の

解明」もトップクラスのテーマなのです。それであれば「性格」を冗談話の世界に置くというのは決して

間違った態度ではありませんね。

2012年9月16日 (日)

「性格」‥2

 すべての国語に「性格」という言葉はあると思われます。例えば英語ではcharacterquality、ラテン

語ではhabitusingenium(インゲニウム)というように。世界の全部の国語を調べたわけではありません

が、「性格」に相当する言葉はどこの国語でも必ずあるだろうと思います。何故なら他人を特定するのに

「性格」抜きではそれが不可能だからです。前回述べましたように「顔」「名前」と同じレベルの個人

特定の重要な要素だからです。仮に「性格」という言葉がなくても自分と他人との関係においてそれに相

当する「事態」や「有り様」があり、それは自分に対する他人の態度、反応です。あーいえばこーいう、

これをやればあれをやる、これを笑えばあれを笑う、といった対面的「やりとり」のことです。そこに

はお互いの特徴、癖が表れます。そして相手のそれらの全体的な印象のことを後になって私達は「性格」

という言葉を付したということでしょう。そのとき相手の特徴として記憶されるのは「性格」の中身であ

る印象です。従ってこの印象は必ずしも言葉とは限らず純然たる象形(強い、弱い、面白い、美しい、恐

ろしい、‥‥等を髣髴させる記憶像)であることもあるでしょう。動物の世界でも「性格」はその動物な

りの仕方で意識されているように思えますが、ほとんどそれは象形だといえるでしょう。少なくとも人間

的言語は介在してないにしろ相手の印象は把握しているようですから。

 また「性格」につながる言葉に「相性」というものがあります。相性の性とは性格のことです。私達は

色々な他人と何故か相性が良かったり悪かったりします。この相性の良し悪しはどこから来るのかはと

んと不明で、これは理屈を超えたもののように思え、要は「好きなものは好きだ、嫌いなものは嫌いだ」

としか説明できません。私達は特定の他人と相性が良い(気が合う)、相性が悪い(気が合わない)の

「仕方がないこと」あるいは「自然なこと」と考えているように思います。友人のでき方にしても、私

人の記憶でいえば小学校でも78歳の頃までは概ね等距離の友人関係(遊び仲間)だったものが、10

前後から特定の友人が(相性のいい相手が)でき始めたような気がします。もちろん誰からの強制でもな

く自然にそうなったのです。学校においてといっても勉強の中でより遊びの中で、教室の中といっても

遊び会話の中で、何となく気の合う相手ができてきたのでした。そして少年~青年~成人へと進む過程で

限られた友人が固まってきたように思えますが、私のように還暦を過ぎてからも自分の内外の環境が変化

することで新たに友人ができたり、逆に失ったりもするのです。

 下世話なところでは、ひと昔前はタレント(俳優)同志が華やかに結婚した後ある程度年を経てからや

がて「性格の不一致」を理由に離婚するというのが定番でしたが、最近は何らかのきっかけで同棲(事実

婚)→程なく「生活のスレ違い」でいつの間にか別居状態(離婚)というケースが多いようで、よりスピ

ーディーでお気軽化した印象です。世間一般でも晩婚化や熟年離婚という社会現象が目立つようになりま

したが、人間の性格が変わったというよりは人間にとっての「性格」の位置付け、取扱い方が変わって

きたというところではないでしょうか。つまり男女という人間関係の質、重み、価値というような点にお

いて以前ほど大げさに考えなくなってきたように感じます。良いかどうかはともかく、それが社会の流れ

となっているように思います。

 上で述べましたように、相手との関係において映じてくる全体的な印象を「性格」と呼称したのですが、

その「性格」の取扱いのアレコレを少し見ていきたいと思います。

2012年9月14日 (金)

「性格」‥1

 今日から「性格」についてのお話しです。

なぜ「性格」という言葉(概念)があるのでしょうか、といきなり聞かれてすぐに答えられる人は少なか

ろうと思います。「性格」は「性質」、「品性」、「たち」、「人となり」、「人柄」などともいわれ

ますが、これを私達は生まれつきの素質の上に様々な生活体験が積み重ねられて後天的に形成されたもの

と見ているように思います。そして「顔」と同じようにある個人Aさんという人の個性を形作り、この世

に同じ性格の人など存在せず、その人間を識別する重要な情報に位置付けています。「顔」、「名前」、

「性格」がそろったところでAさんという人の基本的な人格がほぼ確立するといってもいいでしょう。例

えば私達はAさんのことを「顔」と「名前」だけではまだ知っているとはいわず、「性格」まで分かっ

た時に自分はAさんを知っているというはずです。つまり「顔」「名前」「性格」は個人特定の三大要

素ということになるでしょう。これにさらに年齢、職業、住所、家族構成、出身地、学歴、血液型などを

加えていけばより完全な個人情報ということになりますが、ここで個人情報問題を取り上げてみたいわけ

ではなく、「性格」についてなのです。

 ところが、個人にまつわる事柄の中で、基本的に事実事項として確定していないものは「性格」である

といっていいのではないでしょうか。就職に際しての履歴書や身上書には名前、顔(写真)、生年月日、

住所、家族構成、学歴、職歴、などは事実事項として記載がまず必要ですが、「性格」に関しては、趣

味の欄がある程度で、基本的には不明扱いのようなものです。これはなぜでしょうか。答えは簡単です。

「性格」はその本人と直接会ってみなければ分からないからです。仮に性格欄を設けて、真面目、のんび

り、短気、おとなしい、親切、‥‥などと本人に書いてもらったところで本当のところはやはり会ってみ

ないと分からないと普通は誰もが思っているはずです。また会っても一度や二度くらいでは分からないか

もしれません。ある程度の期間一緒にいて、仕事や遊びや勉強の過程でその人の考え方、感じ方、好み等

をトータルしてみてその人の「印象」が出来上がったとき「性格」も分かったということにするのではな

いでしょうか。

 しかし、そのとき分かった「性格」とは何でしょうか、あるいは「性格」の何が分かったのでしょうか。

これを言葉で表現するのは難しいと思います。ある人から「性格」だけ切り出して独立したものとして扱

うことが難しいのです。その人の写真をとっても「性格」は写りません。「性格」とは「顔」「名前」

と一体になった個別の人格に付着してあるものですが、あくまでも抽象的なものだからです。しかもその

人を特定する上で必要不可欠なものでもあるのです。‥‥そして最初の疑問、なぜ「性格」という言葉

(概念)があるのでしょうか、が出てくるのです。

2012年9月 7日 (金)

「顔」‥20

 「顔」以前の「私」の問題のことになりますが、今日歩きながらつくづく思いました。それは、私が何

あることを考えるのはすべて自分の言い訳のため、いわば自己弁護のためにすることなのだと。私は考

ることによって、考えるという行為そのことによって、自分というものの精神的バランスが微妙に維持

れ崩れずにいるのだということをです。ですから私が考えることができなくなった時は、自分という人

は破たんするのだろうということです。自分の思念だけが自分を維持しているのだという、ひょっとす

と綱渡りのような危うさの上に私を含め人間はみな置かれているといっていいのです。従って、極端に

えば自己意識というものもこのことのためだけに具わっているということになります。人のことを

たにしても、それは人のため、人を助けるためではなく、その人に対して自分がどのような間合いにある

かを無意識のうちに計っていて、それはとりもなおさず自己保全のためなのです。

 そうであれば人間がいつもego(=より自分を意識したものとしてそう呼べば)を語りたがるのはま

ったく当たり前のことになります。逆に言いますと、人間は普通の状態ではegoを語らないほうがどちら

かといえば自己欺瞞であるということになります。例えば「これは自分のことではないけれど‥」などの

前ふりはちょうどこのようなもので、裏ではその事案と自分の立ち位置との隔たり度合をしっかり知った

上でのいい方なのです。よく聞いてみれば結局は自分の話なのです。

 ともかく、自分の行動・行為を説明できるのは自分を置いて他にはありません。ここに他人が入る余

地はまったく、微塵もありません。ということは自分が考えることは常に自分にまつわること、つまり自

分のことを四六時中考えているからこそです。これは何がどうあっても否定のしようがない、確固たる事

実です。

 よく使われる道徳的ないい方に、自分のことではなく他人のことを考えろというのがあります。自分の

周りの、家族のこと、友人のこと、社会のこと、人間のこと、つまり他人のことに思いを巡らせと。し

し自分のことを考えずしてそんなことが可能でしょうか。自分抜きで他人のことを考えることなどできる

ものでしょうか。もしできるという人がいればこれ程あからさまな嘘はないのではないでしょうか。他人

のことを考えるとは、直接的にしろ間接的にしろ、他人に対峙する自分なくしてそれは不可能のはずです。

真の意味で他人に成り代わる(思いやる、同情する、同感する、感情移入する、‥‥どのような言葉でも

同じですが)ことは不可能なことです。他人と同質化することは不可能で、他人を考えるのはあくまで自

分あってのことであり、他人のことを考えてもそれは自分というものによる発案なのですから。‥‥その

一方で、自分のことばかりいう人の話は耳障りで聞くに堪えないというかもしれません。あまりにego

目の前で見せつけられると不快になると。しかしその不快感の原因をよく考えてみますと、他人のego

自分(私)に向けられ続けるため自分のegoが登場できないからです。自分のegoが圧れること以上に

不快なことはないのです。従ってそれはその人の話し方の問題なのです。本当にうまく自分のこと(自分

の考え方、感じ方)を話す人の話は聞いていて楽しいものなのです。例えば名人落語などがそれで、そ

れは人に聞かせるための自分の話芸なのです。

  自己犠牲(他人に成りわって自分が死地に赴くこと)が真に行われるときには、その時・その場では

自己意識が完全にすべてを支配しているのであり、他人への思いやり、同感などでは決してないはずです。

しそこに自己意識がなれば、それは思いもよらない事故のようなものといっていいでしょう。例えば

自ら命を絶つ自殺とは100%自己意識のもとでなされるはずのものです。武士の時代に純の自殺(切腹)

を尊んだのは人間のegoが不可侵のものであることが本当に理解されていたからなのでしょう。

2012年9月 6日 (木)

「顔」‥19

我が家のペットの金魚が今日死んでしまいました。昼前まで生きていたのですが午後使いから帰ってくると

水槽の底で仰向けになるでもなくじっとした姿で死んでいたのです。

原因ははっきり分かりませんが、思い当たるのは、10日足らず前に地元の祭りで私が金魚すくいでせしめた

小さな3匹の金魚をこの水槽に放ったのですが2日もしないうちに3匹とも死んでしまったのがどこか病気の

感じがしたのです。そしてもとからいたペットの金魚が2、3日ほど前からなんとなく動きが鈍くなり、エサ

は食べるものの少し気になっていたのです。まさか死ぬとは思ってもいなかったので、正直残念な気持ちで

す。確か78年前にやはり金魚すくいで得た金魚だったのです。手に取り計ってみると14センチありました。

その金魚は庭の満天星(ドウダンツツジ)の根元に埋めました。あと2月もすれば同じ色に葉が染まると

思ったからです。‥‥一匹のこった泥鰌は田舎の川に帰してやろう。

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