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2012年10月

2012年10月23日 (火)

「性格」‥10

 デジャヴ(既視感)ということがよく言われます。街の家並み、街路、などの風景を見てそれが以前

見たことがあると感じることです。それは今見ている風景が過去の記憶風景と一致しているかよりも、

その「感じ」が何であるかという点に着眼したもののようです。私の体験で言えば、例えば田舎の小川

の川べりを歩いた時、ごくまれに、不意に眩暈(めまい)を伴いながら一種の「懐かしさ」が湧き起こ

ることがあったことを指します。ただ私は大人になってからはこの感覚を持ったことはありません。子

供の頃にさらに小さかった子供の頃の記憶が湧き起こったというもので、これが独特の感覚だったので

今でもこれを覚えているということです。小説やTVのサスペンスに出てくるような、何かの景色に出

会った瞬間に喪失していた記憶が突然よみがえるというようなドラマチックなことではありません。

(因みに、ウィキペディアによれば実際は一度も体験したことがないのにすでにどこかで体験したこと

のように感じることとされる。あるいは、他の典拠ではある光景を見てそれを前にも見たことがあると

錯覚する現象であるとされる)

 しかしながら最近ではデジャヴという言葉を広く応用して使うようになってきており、それとともに

本来的な意味と異なる意味を帯びてきているように思います。新聞の解説記事などで、社会現象という

ものの昔と今との類比性を語るのにデジャヴが使われたりしています。特に政治風景の十年一日の変わ

りのなさ(例えば議員の国会答弁や政治活動)を指して言ったりすることがその典型でしょう。しかし

もともとは人間の内観語(心理学用語)ですから社会性とはまったく関係のない言葉だったのです。

 デジャヴとはまた少し違う心境を表わすものに、里心(さとごころ)というものがあります。里心と

は他家や異郷にいる者が実家や郷里を恋しく思う心(類語では郷愁感、ノスタルジア)のことです。私

にとっては少年時代のデジャヴに相当するのが実年(50才代~60才代)時代の里心と言えます。これは

個々人の性格によっていろいろ異なるようですが、私は78年前まで里心というものにまったく無縁だ

ったのです。「里心がつく」という言葉を知ってはいたもののそれを実感として持ったことはないまま

暮らしてきたのですが、サラリーマン時代の50才代半ばに2年間ほど地方都市に単身赴任した時に初め

てこれを味わってから以降はかなり身近なものになった気がします。はっきり言えば私にとって里心と

は老化現象と同義語なのです。そしてサラリーマンをリタイアした最近は午前中だけ家から歩いて30

ほどの場所にパートアルバイトに就いているのですが、午後の帰宅時間が迫ると里心がつくこともある

くらいなのです。

 それにしてもデジャヴの話の結末が老化現象とは‥‥ついでに言うと「実年」というのはなぜか定

着しない言葉ですね。

‥‥まあこんな風にとりとめのないことを言うことが疑いない老化現象なのでしょう。

<散歩道での風景です キンモクセイのいい香りもありました>

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2012年10月16日 (火)

「性格」‥9

 「性格」そのものの大きな特徴は「多様性」ということでしょう。多様とは、いろいろさまざまで変化

に富むという意味です。つまりつかみどころのない本質的に混沌としたもの(カオス)だと言っていいわ

けです。仮に遺伝子構造が同じクローン人間が複数いても彼ら一人ひとりの「性格」はまったく異なるも

のになることは容易に想像できるでしょう。いくらクローンであっても別々の個体であり、別々の経験を

重ねれば同じ性格になりようがないからです。

 ところで私達はオギャーと生まれた瞬間から周りの人間に対して本能的に、一生懸命「性格」付けをや

ります。それは最も単純に言えば、相手を「敵・味方」の色分けをして自分が生き残っていくためでしょ

うが、その後の実際生活においてもそれで友人・知人を作り、勉強仲間、遊び仲間、仕事仲間を作り、さ

らに異性パートナー(恋人・配偶者)を探すことになるのだと言っていいでしょう。そして時には「血液

型による性格判断」のような遊びネタにもしてしまうのですが、そのようなことをしながら「性格」の数

は顔の数だけ在りそうだと察知しているはずです。

 そもそも人間の知識欲とは、多様で混沌としたものに対しその仕組みを解明し、法則を見出そうとす

るものです。人間の叡智とは「多様性に対する規則付けのことである」と言ってもいいでしょう。従って

人に対する「性格」付け(色分け)もこの人間の本性からくる所作であるのは間違いありません。ところ

が一方で私達個々人は、こうして「性格」付けして相対化した他人とは異なる、この世で唯一無二の自分

という人格の存在を認識すること、即ち「自我」の確立をひたすら図ろうとしています。これにより子供

から大人になるとも言えます。

 ここには一見して矛盾した事態があることになります。人間は他人に対しては「性格」付けという色分

けをしようとしながら、自分は何にも色分けされない多様性を持つ個性的人格であることを志向するとい

うことです。これは一体何を物語るのでしょうか。

 思うに、これは人間としての認識の在り方なのではないでしょうか。つまり誰でも自分のことを振り返

れば確認できることとして、私達は他人を含む外部環境に対しては習性的に「理解」を試みるのであり、

うまく何らかの「規則」(理由、背景、事情、特徴、等々‥)を見出すことによって納得が得られれば、

それにより(その反面で)、自分みずからの存在認識も得られる(自分の立ち位置が分かる)ことになり

安心するのだということです。「いちいちそんなこと考えて生きてなどいるか!」と言われてしまう

もしれませんが、私達は日常において無意識にそれをやっているのではないかということです。

 やはり「本性(本能)」は意識にのぼらないものなのでしょうから。

<小田原の一夜城跡にあるコスモス園です。相模湾も見えます>

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2012年10月10日 (水)

「性格」‥8

 自分の「性格」はいつ頃(何歳くらい)から形成されるのでしょうか。これを明確に記憶している者な

どどこにもいないと思われますが、それは以前(4)に述べましたように、相手の「性格」を描くときそ

れは同時に自分の「性格」も描いていることになるという点がやはり基本になるのではないでしょうか。

私達は他人の「性格」描写を行うときは、自分を成り立たせる生活方法としていわば本能的にこれを行い

ます。そしてこの原初的な「性格」描写は自分を育ててくれる親(特に母親)に対するものだと言えるで

しょう。人間は誕生後しばらくの間は親に守られた環境の中で「泣き声」と「授乳」という対面的「やり

とり」を行いながら育っていくからです。赤子は知性的と言うよりは全面的に本能的な所作として自分の

泣く行為と授乳の関連を理解し、それと同時に親の「性格」描写(把握)も行っていると言っていいでし

ょう。赤子の言葉は最初はほとんどが「泣き声」ですから、この「泣き声」をどういう頻度、大きさ、長

さで行えば自分が「授乳」される頻度、回数、量が得られるかを本能的な所作として体得していくのです

が、同時に相手(通常は母親)の反応も感知しているはずです。相手はあくまでも自分に「優しく」、自

分の欲求をほぼ100%かなえてくれます。従って、赤子ほど「わがまま(:我儘=我の為すがまま)」な

人間はいません。「わがまま」でなければ生きていくことができないからこれは当然のことです。つまり

親の「優しさ」に浸りきり「わがまま」に振舞って生きて育っていきます。この「やりとり」のどちらか

でも欠ければ赤子は生きていくことはできず死んでしまうのは言うまでもありません。

 こうして100%の「わがまま」と相手(親)の100%の「優しさ」を求めるというものが最初の自分の

「性格」の形であり、それはゼロ歳児から形成されるということになります。その後は「性格」はどう厚

みを増し形成されていくのかは想像に難くないでしょう。いっきょに時間を跳ばした言い方をすれば、や

がて幼児期から親以外の人間とも接触し、身に具える言葉の数も増やしていき、対人的「やりとり」の経

験を積み重ねながら、この世で唯一の「性格(個性)」を持つ人間となっていくというわけです。

 その結果人口の数だけの多様な「性格」が存在することになるのでしょう。そして生存方法の描写とも

言えるこの基本的なパターンは実は人間に限ったことではなく、親に養育されて成長する過程を持つすべ

ての生き物に共通することだと言っていいのでしょう。そうであれば「性格」形成の仕方には王道はなく、

自然の摂理に従うだけだということにもなるでしょう。‥‥およそ「性格」にまつわる議論はこの線を決

して外れてはならないと言っていいと思います。

2012年10月 7日 (日)

「性格」‥7

 さて「性格」に性差(男女差)はあるのでしょうか。あるとすればなぜそれがあるのでしょうか。これ

を語りだすと膨大なものになり何年かかっても終わりそうにない気がします。古今東西の恋愛小説は詰ま

るところこれに基づいて成り立っていると言ってもいいでしょうし、これは有史以来世界には数えきれな

いほど存在するでしょうから。

 しかし、そもそも性差とは通念上では何のことを言うのでしょうか。①まず何と言っても最重要なもの

は男性性器、女性性器という生殖器官の差異でしょう。あとはすべてこれから派生することと言ってもい

い位です。そして②外見的容貌の差異‥‥骨格、筋肉、体力から、服装、化粧、なども含まれるでしょう。

さらに③内面的性向の差異‥‥性質(性格)、知力、言葉、趣味、嗜好など‥。と続くのではないでしょ

うか。そしてこのように「性格」も性差があるものと考えていいのでしょう。このことを踏まえた上で、

さてそれはなぜあるのでしょうか。冷静に見ればもちろん生殖は種を残すためであるのは間違いありませ

ん。しかしこれですと「性格」などは問題にならないでしょう。生物学が「性格」を取扱ったという話

は今まで聞いたことがありません(今後は分かりませんが)。ここでやろうとしているのは生物学ではな

くあえて言えば心理学です。と言ってもそれは科学実験的なことを志向するものではなく、感覚的・情緒

的なアプローチから探究しようとするものです。

 性差とは「求める者と求められる者の差」と言うことができるかもしれません。すぐに男:求める者、

女:求められる者‥という図式が浮かびそうですが、よく考えるとこれが正しいかどうか分からなくなり

ます。男女の関係を喩えますと、いい喩えではないと言われそうですが、大きなクモの巣を張って真ん中

で待機する女郎蜘蛛(女)と、そこに飛びこむ極楽トンボ(男)みたいなものと言えそうです。胸を躍ら

せ自由に空を飛びまわりエサ(女)を求めていたつもりのトンボ(男)は、待ち構えていた蜘蛛(本当の

女)のクモの巣にからめ取られて結局は食べられてしまいます。この場合、クモこそ求めていた者(女)

であり、トンボは求められていた者(エサ=男)だと言えます。どうも男女の心理構造の差にはこの喩え

のようなギャップの構図があるように思えるのが私の60年の人生経験からくる感想です‥いや止めましょ

う、やはり品のない喩え話ですわ、これは。

 同じ喩えるなら森進一の昔のヒット曲「花と蝶」の方でしょう。‥♪‥花が女か男が蝶か~、蝶の口づ

け受けながら~、花が散るとき蝶が死ぬ~、そんな恋する女になりたい~‥♪‥うん、これ、これですよ

ね。‥‥でも実際の所は、花は散っても実を残すし、蝶も葉の裏に卵をひり付けておくし‥‥どちらもシ

タタカなんですね本当は。

 やはり「性格」の性差を説明するのは難しい、というのが結論です。

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