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2013年1月

2013年1月31日 (木)

「性格」‥19

 以前に「性格」の類語の「品格」について書いたことがありましたが、さらにその類語の「民度(みんど)」

について話してみようと思います。「品格」のことを「その語り口自体が“品のいい”範疇の言葉」とその時言

いましたが、「民度」は逆にその語り口自体が“品の悪い”範疇の言葉と言っていいと思います(つまり品のあ

る人はそもそもこの言葉に縁がないということでしょう。私は品がありませんからこのことを話すのです)。

 ウィキペディアには‥‥民度(みんど)とは特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動

様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。テレビ番組の

内容が時代、地域の民度と連動しているとの考えも存在する‥‥とあります。また広辞苑では「人民の生活や文

化の程度」とあります。そして「○○は民度が低い(○○には国名、都道府県名、市町村名等が入る)」など

と使います。「○○は民度が高い」とも使いますが余りお目にかかりません。それは「民度」がやはり品のない

差別用語として使われるからでしょう。

 私が最近「民度」のことを思ったのは、関東地方に大雪が襲った今月14日の成人の日の後です。住宅街の路地

裏まで雪が積り、その後の寒波で雪はなかなか溶けませんでした(半月過ぎた今でも所々道端に凍った雪が残っ

ています)。この時、私達の住宅街では道路の雪かきをする地域もあれば全然しない地域もありました。この

かきをするか、雪かきをしないかが正にその地域の「民度」が示されたと感じたのです。その場合の「地域」と

は町、番地よりさらに狭い「向こう三軒両隣」レベルの最小単位のものです。寒さで雪が凍ったため、自動車は

おろか歩行者や自転車にとっても雪かきをした道としなかった道の不便の差がずっと後まで尾を引いたからです。

私は朝30分位歩いてアルバイト先まで通うのですが、幹線道路や通学路はさすがに公的な除雪処置が早々と行わ

れていたものの、住宅地の道は地域住民の活動(=判断)に頼った状態だったのです。そして通勤途中(あと散

歩でも)の道の“まだら模様”の歩行困難さを体験してこの「民度」を痛感するに至ったというわけです。

‥‥「はは~ん、ここは雪かきをサボったな。おお、ここはしっかりやってるな。」というふうにです。もち

ろんこれは私の先入見に他なりません。その道が雪かきがされなかった理由は様々で、足腰の弱い高齢者の多

い「地域」、どこの近所にも該当しづらい通り道や抜け道、といったところもあるからです。しかしそういった

場所を知悉しているのはやはりその近隣の住民であってその住民の「気遣い」、「見回し」に行き着く話ではな

いかと思うのです。

 ところで私が住むところはどうだったかと言えば、一人抜きん出て「民度」の高い奥さんがいて、あの大雪の

日も雪が止んだ夜にその方が率先して雪かきを始め、その姿に誘われて我が家を含め数軒の家が参加しての雪か

きとなったのです。しかもその奥さん、夜中の1時頃にもまた雪かきを始め、目の届き難い路地裏まで除雪され

ているのです。正直に言えば私は外の音に驚き、その奥さんの姿の確認まではしたものの雪かきはせずに布団に

もぐってしまいました。そして翌朝以降その雪かきの効果をあの奥さんの人徳とともに思い知ったというわけで

す。私がこのブログを書けるのも、あるいは書かないわけに行かないのも、このことがあったからなのです。

そして「民度」とは「公徳心」に他ならないということも理解したのです(これなら品がありますね)。

2013年1月23日 (水)

「性格」‥18

 大阪の高校で体罰が原因で生徒が自殺する事件が起きました。これは体罰をしていたバスケットボール

部顧問の指導能力の適格性にとりあえず行き着く問題なのでしょう。生徒を殴打することを練習指導にお

ける中心手法と心得ていた顧問個人の性格に多く負う事件であるのは間違いないと思われるからです。

 しかしながら、中学から高校の運動部(特に男子の)では昔からコーチや先輩・上級生が部員を、時

に“ぶん殴りながら”教えることは当たり前のようにあった慣行です。どの種目でも運動部の練習は多か

れ少なかれ過酷さを伴うものです。勢い、部員は練習の中でもスキがあれば(見えないように)手抜きを

したりサボったりすることはまず普通にあるものでした。不運にも見つかった時に「ポカリ」とくるとい

うわけです(それは状況次第でソフトなものからシビアなのまで様々です)。

 そもそも運動トレーニングは緊張と弛緩の繰り返しという性質を持っています。逆に緊張しっぱなし

ではかえってスキルは伸びずトレーニング効果が低下するという側面が少なくないのです。肉体的にも精

神的にも、弛緩があるからこそ緊張時に能力がアップするということなのです。このことは実はコーチ自

身が一番良く知っているはずなのです。

 一方、その時の指導方法の一環の中で常に特定の生徒を叱られ役とするやり方を取る指導者(監督、顧

問、コーチ、等の肩書きは問わず)はけっこう多いものです。見せしめをしながら組織全体を締める方法

はスポーツの世界に限らず一般企業などの競争環境にある多くの組織で見られる光景であるといっていい

でしょう。ただしどのケースでも、叱られ役、見せしめとなる役の人間はそれ相応のタフさがなければ潰

れてしまいます。従ってその指導者はその見極めと加減(制御)を十分心得ていなければそれは単なる体

罰(=いじめ)であり、トレーニングというものからまったく逸脱したものとなってしまうでしょう。

その分岐点の見極めは本来的に指導者の経験に裏付けられた能力に左右されるものなのです。そしてその

能力に欠ける者が不幸にも指導者に置かれ続けた結果起こったのが今回の事件だったと言えるでしょう。

この指導者が行なっていたことは“いじめ”以外の何物でもありません。最近多くの学校で起きている

“学童いじめ”と似通った性質のものです。そして“学童いじめ”と同じく、表面化していない運動部の

“体罰的指導”の実際の数は想像をはるかに上回って存在しているのは間違いないと思います。

 しかし運動部の世界の“体罰的指導”は決して今に始まったことではありません。私の記憶の古い所で

50年前の女子バレーボールの“鬼の大松”の猛練習は伝説となっています。最近は大相撲の世界でも

“体罰的稽古”で若い力士が死亡して問題になりましたが、かつてハワイ出身力士の高見山が語った苦労

話に「無理偏にゲンコツで兄弟子と読む」と当意即妙の言葉があった通り、これが当り前の世界であった

ようですし、野球でも、漫画の「星飛雄馬」の過酷な“ど根性物語”に皆が感激し、そのくらいでなけれ

ば名選手にはなれないものだと了解していたのです。つまり、これはある意味で日本の文化なのでしょう。

小柄な日本人の肉体的劣勢を“精神力”で突破できるとする“精神主義”は昔からあり、スポーツの世界

では近代的な「科学的トレーニング」を取り入れながら今でもプロ・アマを問わず日常的に口にされてい

るものです。そして、“精神主義”と“体罰的指導”は何故かワンセットになることが非常に多いのです。

戦前の日本の軍隊もまさにこれだったと聞きます。この精神構造は日本独特と言えるものなのです。

 このような背景を念頭に置くこともせず、この辺の分析・議論をすっ飛ばした橋下大阪市長の「体育系

学科」の入学試験中止や当該高校の教師全取っ替え発言は私には全くのピント外れ(あるいはトカゲの尻

尾切り)にしか見えません。

2013年1月17日 (木)

「性格」‥17

この世にどれほど科学文明が進もうと決して分からないものはある。

1. 一寸先(未来)のこと

2. 時間とは何か

3. 人が考えていること

4. 死んだらどうなるのか

5. 生命がどうして生まれたか

6. 私(自分)とは何か

7. 物質と精神の区別はできるのか

‥‥‥

この分からないことを解明しようとして学問が生まれ、宗教が生まれた。‥いや‥

‥‥海が生まれ、陸が生まれ、空が生まれ、‥‥生命が生まれ、社会が生まれ、言葉が生まれ、国家が生まれ、武器が生まれ、戦争が生まれ、文化が生まれ、音楽が生まれ、絵画が生まれ、哲学が生まれ、詩が生まれ、漫画が生まれ、民主主義が生まれ、資本主義が生まれ、共産主義が生まれ、悪魔が生まれ、神が生まれ‥‥およそ生まれそうなものはすべて生まれた。

しかし何が生まれようとも分からないものは分からない。

これが分かる前に地球の、太陽系の寿命がつきてしまうだろう。

これが解明できるものであればとうの昔に解明されていただろう。例えば生命がどうして生まれたかが解明されていれば星の(恒星、惑星の)寿命など関係なく生命は永遠に存在するものとなっていただろう。人が考えていることが分かり、自分が何かが分かってしまえば自分や他人に対する興味は消滅し、愛情や友情も消滅し人間社会はクローン人間が生きる社会に変わるだろう。時間の正体が解明され、過去・現在・未来がコントロールできるようになれば生きる意味もなくなるだろう。つまり現在では非現実とされていることが現実となるだろう。それはノアの洪水が起こることである。

しかし安心していい。これらのどれ一つとして分かることはないのだから。

‥‥というような夢を見たいものだ(な~んだ?)。

2013年1月11日 (金)

「性格」‥16

 「性格」を意味する英語はcharacterqualityindividuality、‥といくつもありますが、私にとって最もフィットするのはpersonまたはpersonalityです。personを日本語では「人」と訳しています。また、人柄、個性、人格、登場人物、身体、容姿、個体の意味もあります。派生語のpersonalityは個性、性格、人格、人間性、と「性格」の意味がより強まり、さらに個性ある人、著名人、タレント(有名芸能人)の意味も持ちます。

 そしてpersonの語源はラテン語のpersona(ペルソーナ)です。personaの意味は(劇・芝居の)仮面、マスク、役、登場人物、‥から役割、資格、品位、体面、‥さらに人格、個性まであります。そしてpersonaは合成語で、per+sonoと分解することができます。per(ペル)は前置詞で、(場所)‥を通って、経て、(原因)‥の故に、によって、(方式・態度)‥の方法で、をもって、‥の意味を示します。sono(ソノー)は動詞で、音がする、響く、意味する、言葉に表す、という意味のものです。つまりpersonaという合成語は「声(言葉)で性格を装った」といった心持ちの名詞ということです。例えば仮面劇の登場人物は台詞(声)だけがその性格を表現するといった場面を想像すればいいでしょう。結局そのような役割(性格)を持ったもの、それがpersonaです。その場合、性格とは猫をかぶった裏の本性ではなく、猫をかぶったそのポーズ、極論すればそのかぶった猫が性格なのです。玉ネギと同じで、玉ネギの正体を求めて皮を剥き続けても何も残らず、玉ネギは皮こそ正体だというようなものです。

 その際に「性格」の所有者本人がこれを自覚しているか無自覚かは問題ではありません。というのは「性格」を演じていると自覚していても上の意味からして、演じる姿勢も「性格」に含まれるからです。(‥‥ただ劇の世界では、劇の役を照れることなく演じ切るのが名役者で、自意識が残って照れが見えてしまうのはダイコン役者ですが‥‥)

 ちなみに、手元の英和中辞典に依れば「性格」・「性質」の類語の主なものは次の通りです。

character:人物評価の基準となる人特有の道徳的特性。

individuality:他人とはっきり違う個人的特徴。

personality:外見と内面的特徴が一体となって他人に与える印象。

quality:人や物が具備し、その性質・行動などを左右する特色。

nature:人や物が本来(生来)具備する色々なqualityの総体。

attribute:人や物が当然持っていると見なされるquality

 こう並べられるとどれでもいいような思いがしてくるかもしれませんが、以前から私が述べてきました、「性格」は自分と相手との対面により形作られる相手のイメージ全体のこと、というものに近いのはやはりpersonalityperson)ということになるように思うのです。

2013年1月 8日 (火)

「性格」‥15

 えーと何を書いていたんだっけ?あ、そうか総選挙の3週間前に書いたのが最後だった。そのあと前立腺の手術で入院し、今も通院中でそれでも小便の出は良くなり、朝の私のハバカリ音に隣の部屋の息子から「オヤジ、その音は俺への嫌がらせなの?」と言われたくらい勢いが回復した。

 ‥‥それで今のテーマは「性格」でした。そもそもこのエッセーブログ(と勝手に呼びます)はほぼ1年前に「私」からスタートして「言葉」、「顔」、そして「性格」と来たということでした。こんなテーマを選び続けているということは私が陰気な性格の証拠でしょう。哲学的な雰囲気に浸りたいなんぞ、本当に私はネクラでオタクの証拠です(こう言うと怒る人がいるかも知れませんが)。しかしどう見ても私のようなタイプを明るい人間とは言わないでしょう。もし面と向かって「やあ、あなたは明るい方ですね!」と言われたら馬鹿にされたと思って私は本気で怒るでしょうね。しかし逆に「あなたは本当に暗い人ですね!」と直接言われたらそれはそれで気持ちのいいはずがなく、やはり怒るかしょげるかのどちらかです。それは悪口なので本人に直接言うことは避けるのが普通でしょうが‥‥。

 しかし居直るわけではありませんが、ネアカタイプが一番縁遠いものが哲学を読んだりエッセーを書いたりすることではないかという感じがするのは間違ってはいないでしょう。大体、人をネアカとネクラに分けるというのが全くステレオタイプで浅知恵のシロモノだと思えるのです。私は以前からこの「ネアカ、ネクラ」を平気で口にする人を前にするとその人をついマジマジと見る癖がついてしまいました。その瞬間にその人の意識レベルが透けて見える印象がしてしまうからです。そして何故こう単純になれるのかなと不思議に思ってしまうのです。

 さて、昨晩七草粥を食べ過ぎて胃がもたれ気味(何のための七草粥か!)なのですが、これから通院先へ今年はじめて行かなければなりません。そして担当医にあることを告白しなければいけないと思っているのです。‥‥それは(家人には言えませんが)年明けからエロい夢をよく見るようになり、これは病気の性格上良くないのではないかということです。しかし夢を自分の意のままにすることは不可能です。その辺のことを相談したいと思っているのです。自分のことながら何か哲学的に興味もあるのです。

‥‥こうして私の今年のリスタートとなりました。

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