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2013年2月

2013年2月27日 (水)

「性格」‥25

 「性格」よりも「言葉」シリーズで言っていれば合うような話ですが、何年か前から“KY”(空気が

読めない)という言葉が使われるようになりました。もとは隠語(一部の仲間内だけで通じる言葉)で

使われたものでしょうが、今やすっかり通用語になってしまいました(最近はこのようなイニシャル語

全体をKY語と呼ぶらしい)。

 私の印象ではKYは最近56年位前から世に出始めたように思います。最初は恐らくネット上のツイー

ト文の中で使われたものなのでしょう。ネット上ではスピーディーが旨とされるせいか、できそうな言

葉はみな略語にしてしまうからです。

 しかし、「空気を読む」あるいは「空気が読めない」という言い方はそもそも従来からあったもので

す。「空気」とは身の回りのいわゆる空気の意味以外に、その場の雰囲気・気分という意味もあり、

「不穏な空気」という言い方などがある通りです。それをKYというイニシャルにしたのが最近のことで、

これは、その場の空気が読めず少し浮いている人間、少しズレている人間を指す略語というわけです。

つまりKYというのは、本来は「あなたはこの場の空気が読めていませんね、それはダメですよ」と本人

に言うべきところを、直接言わずに‥‥アイツは空気が読めないヤツだな‥‥と思い、その思いを共有

した回りの者達が、その本人がいない時、いない所で「○○はKYだから」と誹(そし)る言葉として使

われるのです。直接本人に言わず、オブラートにくるむだけ優しいイメージがあるかもしれませんが、

逆にその分陰湿であるとも言えます。つまり「隠語」とは多くの場合「陰湿語」・「陰口」に通じる

ものなのかもしれません。

 もっとも、本来の言葉をそのまま表現せずアルファベットのイニシャルで言うのはKYが最初でも何で

もなく、英語が日本に入ってきた明治・大正時代からあったようです。私の子供時代でも、変態を“H

と言ってましたし、性的なジャンルで“S”や“M”があり、少年少女の性的遊びのレベルを“ABC

‥‥”と暗号化したり(よくは知りませんが‥)、探せばキリがないほどあります。また、NHKTBS

というようにマスメディアもこぞってイニシャル化を取り入れてきた歴史があるのです。

 一方、本家の英語では頭文字表記はごく当り前の文法です。人名で多く使われていますし(MJ:マイ

ケル・ジャクソン、マイケル・ジョーダン、JFK:ケネディ大統領‥‥)、あらゆる分野の固有名詞や

専門用語は直ちにイニシャル化されますから、その数は無数に近くあります(CIAFBINASAFRB

IBMGMFIFAWHODV、‥‥)。文章略語もASAPas soon as possible)、etcet ceteraこれはラ

ン語)など豊富にあります。

 そもそも今使っている日本語も中国から導入した複雑な漢字を簡略化し、ひらがな、カタカナも作っ

てきたというのが歴史的事実ですから、このような現象(略語化)は言語の本質と言って間違いないで

しょう。ひと言で言えば“言葉は使われ易いように絶えず変化する”ということです。

 KYに話を戻せば、「空気が読めない(者)」をイニシャル化すること自体を良いとか悪いとか言うこ

とはできず、KYが日本語として定着し残る言葉かどうかも実は誰も分からないということでしょう。

このようなことはいわば“流れにまかせる”しかないということです。そしてすべての文化メディア

(新聞、テレビ、ラジオ、本、パソコン、携帯‥)はこのような“流れ”に乗っているという位置付

にあると言えます。つまり人間社会の中でこれらのメディアは時流を作り、時流を後押しするのですが、

逆に人間に利用されなければそのメディア自体が時流から外れ消滅する運命にあると言えるでしょう。

 こうなると日本では古代に漢字を導入したり、近代に標準語を定めたりしたのは表向きは統治政府

イドの能動的働きかけが契機とされていますが、そうすることが時流だったと言えなくもなさそう

気がします。歴史に“もしも”の仮定は禁句(ナンセンス)ですが、もしその時流を取り入れなかった

ならば今の日本は大分違う風景となっていたことは間違いないでしょう。良かったか悪かったかはやは

り誰も言い得ないことでしょう‥‥。

2013年2月 9日 (土)

「性格」‥20

 平野啓一郎のエッセイ『私とは何か』(講談社現代新書)を読みました。私のブログのテーマともオー

バーラップしますし、新進気鋭の作家のエッセイに大いに興味をそそられたからです。以下、その論旨と

私の感じた点を述べてみたいと思います。

 この本のサブタイトル:「個人」から「分人」へ とある通り、「個人」という概念を英語のindividual

の語源を足がかりにして、in(否定)+divide(分ける)=分けられない(もの)、が元々の「個人」

の意味であることをまず確認します。そうした上でこれに対して「本当にそうだろうか」と疑問を投げか

け、人間は「分けられない」存在ではなく、複数に「分けられる」存在=「分人」であると直観すると

ころから出発するのです。

 人間は子供から大人へと精神的(肉体的にも)成長を遂げていく過程でいろいろな性格の「顔」を具え

ていく。それは対人的な(特に友人との)付き合いの中で現れてきます。例えば高校の頃の自分、大学の

頃の自分、社会人(作家)になってからの自分、等はそれぞれ明らかに違う「顔」をした自分です。

それぞれ違う相手に対し、話し言葉が違う、口調が違う、ノリが違う、つまり「性格」も違うことにな

ります。また何かの折に偶然自分の新旧の友人が同席することになった時の、何とも言えない居心地の悪

さ。違う友人ごとに違う自分を演じなければならないからです(この経験は私にもありますし、多かれ少

なかれ誰にもあるのではないでしょうか)。それは付き合う相手ごとに違う自分があるからです。そして

その中に「本当の自分」があるのかといえばそんなものはなく、すべて「本当の自分」(=分人)です。

つまり人間は常に多種多様な複数の「分人」の集合体として存在しているというのです。それは誰に対し

てもいい顔を向ける「八方美人」とは真逆で、相手ごとに本質的な自分をさらけ出すものだということです。

 結局、人間は対人関係ごとに別々の「分人」になるのが自然であり、ある人間の個性とはそのように各

人が複数保有する「分人」の構成比率に他ならないということになります。そして(友人でも恋人でも)

相手に対する好き嫌いとは、そうした相手に対する「分人」の自分にとっての好き嫌いに行き着きます。

好きな友人とはそのような友人といろいろ会話をする時の「分人」が好きなのであり、好きな恋人とはそ

の恋人と一緒にいる時の「分人」が好きなのだということです。それはまた「ものごと」をポジティブに

発想することなので、例えば学校でのいじめや会社での対人関係の行き詰りといったネガティブな「分人」

を相対化して見ることができ、その窮地から自分を脱却させる有効な方法ともなるというわけです。

‥‥以上のように平野啓一郎の、「個人=分けられないもの」に対するアンチテーゼとしての「分人」と

いう着眼点は斬新で、私達の生活の中にスムーズな頭の切り替えをもたらし、例えば往々にして「自分探

し」が陥りがちな閉塞状態からの突破口を示してくれる観すらあります。しかし、このエッセイの中で

私が思った問題点がないわけではありません。それは「分人」の概念は確かにそう言われてみればすべて

納得の行く、非常に腑に落ちるものだと感じましたが、そこで多様な「分人」を見て喜んだり悲しんだり

る(客観視する)「主体」とは一体何者かを述べていない点です。それも「分人」なのか、それとも多

様な「分人」を束ねるいわば「メタ分人」とでも呼ぶ人格を考えればいいのかということです。この「主

体」なくして望ましい「分人」バランスが自分の中に構築され維持できるものでしょうか。これは将棋で

言えば最後の「詰め」のところでしょう。

進化途上の作家として、いずれ何かの作品の形でその詰めを完成させるのかも知れませんが‥‥。

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