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2013年3月

2013年3月25日 (月)

「性格」‥31

 最後に身近な「お金」の問題の話をしてみましょう。先の総選挙で誕生した安倍政権は「景気回復」を

最大の政治課題とし、通称「アベノミクス」という経済政策をスタートさせました。それは我国でもう

20年近くも続いている「デフレ」から脱却しようとするものです。そのための方法が今まで以上の「金

緩和」です。今まで以上というのは、これまでも金融緩和は続けられてきて「超低金利」・「ゼロ金利」

政策をずっと継続してきたからです。今度の「アベノミクス」はそれをさらに一段と押し進めようという

のです。一体何をするのかといえば、民間で流通する「お金」を大幅に増やそうということです。どのよ

うにしてやるかといえば、日銀⇒一般銀行⇒企業⇒個人の順に「お金」が出回るようにするということで

す。問題はその流れが本当にスムースに起こるのかということです。

 「お金」とはどんな時代であろうと『人間が、生活する上で、必要なものを、購うための支払手段』で

あることは変わりません。従って上の流れの中の最後の「個人」のところで「お金」が出回らなけれ

ばこの経済政策が効果を生んだことにはならず、デフレも解消しません。これは「鶏が先か卵が先か」

の話のようなもので、人は手元に「お金」があるから必要と思う物(サービスも含む)を買おうとする

のか、必要と思う物があるから「お金」を使うのかという問題です。まず前者の話からすれば、人が勤

務者とすると勤務先から給与として支払われる「お金」が左右することになり、勤務先(普通は企業)

はその業績次第で給与(ボーナスを含め)を増やしたり減らしたりします。企業の業績は景気が左右し

ます。ここでも「鶏が先か卵が先か」の話になります。景気は物が消費される(買われる)かどうかが

左右するからです。昔(昭和30年代~50年代)であればこの景気の契機(語呂合わせみたいですが)を

公共投資という政策が果たしました。ダム、道路、橋、新幹線、空港、等の新設・増設のことです。

しかし今ではこれらはほとんど不要で(ダム、地方空港、広域農道等の多くは残骸と化している)有効

な方法ではなくなりました。これに代わる新たな手法は今のところ見つかっていません。勤務者が公務

員であっても同じで、給与は税収が左右し、税収は景気が左右するということです。次に後者の話(必

要な物があるか)では、通常の家計であれば通常の生活品目はすでにほとんど行きわたっています。身

の回りに不要不急な物は思った以上に溢れているのです。だから電力節約問題も乗り切ってきたのです。

もちろんこの一方、長期デフレ不況下で生活保護者(家計)も増えています。いずれにしても「お金」

が使われ難い状況となっているのは間違いありません。

こうなると「手詰まり感」だけが残ることになります。それはそうでしょう、これが簡単に解決できな

いから20年も不況が続いているのですから。そして今「アベノミクス」の目玉として“インフレターゲ

ット”が打ち出されました。2%位の望ましいインフレが景気浮揚をもたらすと。‥‥私はのっけから

れに冷水を浴びせるのには少し気が引けますが、これは例の“人口増加策”と同じだろうと思います。

人口増加が起こらないようにインフレも起こらないと思います。一つの理由は、これまで20年間やっ

きたのが実質的にインフレターゲット政策に他ならなかったからです。それでもデフレが続いています。

そしてこれからやろうとする具体策も今までと代わり映えがしないと感じられるからです(いわゆるバ

マキ政策でしょう)。前回述べましたようにデフレという病気の根本的治療方法はまだ見つかっていない

のです‥‥。

お手並み拝見と行きたいところですが、使い古しのお手並みでないことを祈るのみです。

2013年3月23日 (土)

「性格」‥30

 さて「お金」のこととなるとやはりインフレとデフレのことを話さないわけには行かなくなります。「価値の尺度」という

「お金」の機能に直接関わる社会現象だからです。こうなると「経済学の勉強」のようなことになりますが、すでに今ま

での話も経済学の範疇のことですからこれは止むを得ません。経済学とは「経済現象を研究する学問」の謂ですが、

これだと漠然としてピンときません。これを私なりに言い直せば、経済学とは「お金の本性を探究する学問」のことであ

ると見ます。経済現象とは「お金」の在り方、動き方に他ならないと思うからです。

 ついでに言いますと、洋の東西を問わず古来「お金」を論じることはそれ自体賤しいことと見られてきました。「お金」

にまつわる論議は必ずこれをいかに増やすかの話にはなってもいかに減らすかの話にはならず、「人間の欲望」に

隷従したものと見られたからでしょう。1901年に始まったノーベル賞に経済学賞が加わったのも賞の中では最も遅い

1969年のことで、これはサミュエルソンを始め大勢の経済学者を擁し、東西冷戦下で資本主義陣営のリーダーを自

他共に認めていたアメリカがノーベル財団に強い政治的圧力をかけて実現させたと言われています。

 物価が上がったり(インフレ)下がったり(デフレ)とは、物の「お金」で表示された数値(価格)が大きくなったり小

さくなったりすることです。つまり物の本来的な価値(人にとっての利便性)は変わらないとすれば、「お金」の方の価

値だけが下がったり(インフレ)上がったり(デフレ)することです。よく使われる喩えとして、経済を体とすれば「お金」

は血液とされます。インフレは血が多すぎること(高血圧)、デフレは少なすぎること(低血圧)でいずれも病気なのです。

現代の医学療法ではこの体の病気の治療に血を抜いたり(瀉血)、血を加えたり(輸血)することは行われず(昔はあ

ったのです)薬餌療法で治療しますが、経済の病気の治療にはこの方法(「お金」の吸い上げと注入)が使われるのです。

つまり今までのところこの方法以外に経済の病気の治療方法は見つかっていないのです。病気(特にデフレ)を治せる

までの方法論を備えた「経済学」は未だ打ち立てられてはいないのです。それがこの分野の学の賤しさのために歴史

的に学問的考究が遅れたせいかどうかは分かりませんが‥‥。
 

 本来的には物と物の交換のための利便性の必要物として生まれた「お金」はその利便性の性格の故に「富」の象徴

となりました。そうして欲望を持つ人間が「富」を築くことを生きる目標とするようになるのは避けられないことだったと言

えます。それを「悪」と言ったところで皆同じ本性を持つ人間の誰がどのような立場でそれを言えるのかということです。

「神」がいると信じられればそれは「神」以外にいないのでしょう。

2013年3月21日 (木)

「性格」‥29

 「お金」は経済学的にも「価値の尺度」、「交換の手段」、「価値の貯蔵手段」の3つの機能を持つ

ものとされています。そして前の二つは今まで述べて来た通りのことでいいと思いますが、この三つ目の

「価値の貯蔵手段」という機能こそは「人間の欲望」が最も直接的に現れるという意味で「お金」の持つ

宿命的、道徳論的な性格が浮き彫りになる側面なのだと思われるのです。なぜなら「お金」の貯蔵はその

まま富を表わし、いわば「お金」にまつわる醜悪な「物欲」という人間の性格がここに凝縮された姿で示

されると言えるからです。いつの時代でも、「お金」を貯めこむことは悪とみられることは多く善とみら

れることは少ないのが常で、富者に対しては「金の亡者」や「我利我利亡者」などと怨みを込めて呼ぶこ

とがもっぱらとなりがちです。今の世の中では多額納税をする人を辛うじて「長者」と讃えるだけという

のが実情と言っていいでしょう(そこにも揶揄のニュアンスがあります)

 しかしそもそも富は人間の生活の安定を成り立たせるもののはずです。それなのになぜ富は妬まれ富者

は憎まれるのでしょうか。それは富の形成過程に対するある一般的な評価傾向のためでないかと思われま

す。何と言っても「お金」を貯めるには得た収入より少なく消費するのが一番まともな方法です。いわゆ

る「爪に火をともす」暮らしぶりのことです。ところが、人がそれに徹した生活をすれば周りからは吝嗇

(ケチ)と見られることはあっても人望を得ることはまず困難なことになります。しかし吝嗇であるか

篤志であるかは実は偶発的なもので人が置かれたその時々の生活状況が決めるといってよく、そこに明確

な境界線を引くことは難しいことだと思います。最初から清貧な生活を心がける人は富を築きませんし、

富がなければ篤志を行うこともできません。そして富は相続や僥倖によって手にする場合を除けば吝嗇を

長い期間にわたって続けること以外にこれを築くことはできません。

 そしておかしなことに、上記の多額納税は経済的には篤志行為に他なりませんが、それは積極的な意志

によるのではなく納税義務によるものと見られるため、その人は「長者」と呼ばれるだけで「篤志家」と

尊称されることはありません。要するに富に対する善悪評価は「人間の欲望」を根底に置くため、それは

妬み、嫉(そね)みが判断根拠に紛れ込んだものになっているということです。そして敢えてステレオタ

イプな言い方をすれば、富者はゆとりのある安定的な生活と引き換えに、高額納税と世間からの嫉妬を甘

受している(ある意味では居直っている)ということになるでしょう。

 もちろんこのようなこととは別に、近年のビジネス社会における潮流となってきた観もある「起業家

(アントレプレナー)」という新時代の富者の出現に対しては、その革新的資質と一攫千金的資質とい

好悪相半ばする評価がありながらも、着実に社会の中で存在感を高めているのは事実として認めていい

となのでしょう。

2013年3月18日 (月)

「性格」‥28

 「お金」は社会の進歩とともに、もともとの現物的性格から抽象的・システマティックな性格へと変わ

りつつあるのでしょうか。これはそうであるともそうではないとも言えると思います。確かに「電子マ

ネー」といったような「お金」の形態はこれからさらに多様化していきそうですし、現在からは想像もで

きないような仕組みのものが生まれてくる可能性があるでしょう。ところが一方、あの「お金」の定義

である『人間が、生活する上で、必要なものを、購うための支払手段』という大原則が変わることはなさ

そうに思えます。「言葉」とともに人間を人間たらしめている証拠とも言える「お金」の本質が簡単に

変わるとも思えないのです。「言葉」は形が絶えず変化しても「言葉」そのものは決して消滅しないよう

に、「お金」もうわべの形はどんどん変化しても「お金」そのものは決して消滅しないでしょう。人間に

知性がある限り「言葉」はなくならないように、人間に欲望がある限り「お金」はなくならないと言って

いいでしょう。

 従って、誰でも「お金」はより多く持っていたいと願うものです。よほど修行を積んだ人か世を捨てた

人でもない限り、この願望(金銭欲)を捨て去ることはできません。賭博に多額のお金をつぎ込む人や多

額の義援金を出す人はそれができるほど多額のお金(資産)がある人です(妬みではなく事実を言ってい

るだけです。賭博、寄付は交換取引(物々交換)ではありません)。日本ではデフレ不況がもう20年も続

いていますが、街角で誰彼にでも景気回復を願っているかどうかを聞けば1000人中999人が是非そうなっ

て欲しいと答えるでしょう(一人位は上の修行者や変わり者もいるかもしれません)。

 この世の出来事において無から有が決して生じないという法則は、「お金」に関しても当然当てはまり

ます。例えば借金した「お金」を使って何かの賭け事で儲けたとしてもこれは無から有が生じたのではあ

りません。借金は返さなければならず、儲けと同じだけの損が誰か他の人にあるというだけで、社会全体

での「お金」の量が変わるわけではありません。

 では自分で「お金」は作れるのでしょうか。「物々交換」の「お金」であればもちろん作れます。麦が

「お金」であれば麦をたくさん作ることは「お金持ち」になることです。これは今や世界中の人や企業が

やっていることです。穀物、野菜、果物、肉、衣類、酒、薬、‥‥自動車、電化製品、石油製品、鉱物資

源、‥‥これら「商品」はもう何万種類とあり、日夜新たに作られていると言えます。しかし「貨幣」は

限られた組織(政府、連邦政府)しか作ることはできません。それは「貨幣」は今は大部分が「紙幣、硬

貨」の形態でありこの「貨幣価値」は政府以外に保証できないからです。

2013年3月14日 (木)

「性格」‥27

 もともと「お金」はそれ自体が価値を持つものでした。つまり「物々交換」が原初形態であった「お金」

は、例えば羊1頭が麦100袋、鶏1羽が麦10袋、鹿の毛皮1枚が麦20袋というように麦を「お金」として交換

されるとしても、麦そのものも食料としての価値を持っています。

そして羊1頭=鶏10羽=鹿の毛皮5枚=麦100袋という価値の等式が成り立っています。そして「お金」の

役割を金、銀といった金属が果たすようになった時にも金、銀は貴金属価値(希少価値)を持ち、それは

基本的には貨幣価値と等価でした。しかしやがて金、銀が「流通貨幣」として出回りもっぱら支払い手段

として使われるようになると金、銀の貨幣価値(表示金額)とその貴金属価値とは切り離されて(その場

合、金貨・銀貨の貴金属価値は貨幣価値に大巾に不足する量で)使われ、さらに貴金属価値のより少ない

銅、真鍮等の貨幣も使われるようになりました。そして最後に紙幣が登場しましたが、これは金額表示さ

れた貨幣価値だけのもので商品価値(希少価値)はほとんどなく、純粋に支払手段としての「お金」とな

ったのです。

 これがさらに最近ではクレジットカードやプリペイドカードといった、銀行口座決済やカードの電子的

憶残高を使うことで「現金(キャッシュ)」の使用を必要最小限にする「お金」のシステムが主流と

なってきています。このシステムを「電子マネー」と総称するようですがマネー=「お金」の本質は変わ

ません。そしてこれが現在最も“利便性”のある「お金」の形態だということでしょう。

 私は最近あるカルチャースクールを申込み、その後不都合があってキャンセルしたということがありま

した。申込みに伴って入会金が銀行口座から引き落とされ、キャンセルによって振り戻されましたが、こ

の手続において私は「キャッシュ」は一度も手にしてません。スクール側もそうでしょう。これは私やス

クールに預金残高が口座にあるから可能なのだとは言い切れません。私もスクールもローンを組めば手元

資金(預金を含む)がなくても可能だからです。このようなことを広い意味での「信用創造」と言います

(こんなことを言っても、私が金融業界の“回し者”でこのシステムを推奨しようとしているわけではあ

りません。あくまでも「お金」の性格を探究したいためです)。

 この信用創造くらい「お金」の“利便性”を高めたものはないでしょう。しかし、いくら信用創造によ

り「お金」の利便性が高まっても「お金」の定義である『人間が、生活する上で、必要なものを、購う

ための支払手段』が変わることはありません。これが「お金」の大原則ということであり、いくら社会が

テクノロジー化、電子化して利便性が高まってもこの大原則は変わりません。従って上の例で言えば私が

申込みをキャンセルしなかったら、私は最終的に私の「お金」で支払いを済まさなければなりません。そ

れをしなければ私はカルチャースクールで(私が必要と思った)知識を得ることはできません。それは、

やはりそれが「お金」を使った交換取引(物々交換)だからです。

2013年3月11日 (月)

「性格」‥26

 今回から「性格」を人間に限定せず、色々なものに派生させて考えてみようと思います。最初は誰もが

関心があって考え易い「お金(貨幣)」の性格についてお話します。

「お金」をテーマにすると言っても、お金儲けの話ではありません。あくまで「哲学的な課題」として

話をしていきます。

 まず「お金」とは何かと言えばそれは『人間が、生活する上で、必要なものを、購うための支払手段』

です。これが最も基本的な定義と言えましょう。その理由を説明するためにわざと読点で区切りました。

 まず、「お金」は人間以外にはこれを利用しません。当り前のことなのでこれを説明する必要はないか

もしれませんが、「哲学的な課題」なので面倒でも一々その意味を確かめながら進めていこうと思います。

そうしてみますと「お金」は人間が考え出した知恵の産物ということになります。人間以外の動物は

「お金」を考え出す知恵はもちろんありません。ちなみに人間において「言葉」と「お金」とでどちらが

先に出現したものかはっきりとは分からないと私は思います。すぐに、「お金」という概念は「言葉」が

なければ生まれようがないだろうと、「言葉」が先だったと言いたくなるかもしれませんがそんな証拠は

ありませんし、「ものごと」があってそれを指す「言葉」が後から出来たのであれば「お金」(であるも

の)が先だったと言えないこともありません。それに「お金」が現在の紙幣や硬貨の形態になったのは人

間の歴史上ではごく最近のことで、原初的には穀類、木の実、貝類といった幾種類かの生活物資が「お金」

の役割を果たしていたと見られています。‥‥結局のところそれを厳密には確かめようがないほど太古の

昔から存在したと考えればいいでしょう。

 そして「お金」は人間が生活する上で生まれたのであり、その生活とは集団的な社会生活のことです。

“ロビンソン・クルーソー”の世界では「お金」は生まれません。上で述べましたように「お金」の原初

の形態は生活物資の交換、いわゆる「物々交換」だったと考えられます。つまり穀類や木の実などが集団

的な社会生活の中で「お金」の役割を果たしたと考えられます。誰でも入手でき誰でも使う物が「物々交

換」の主役を果たすことになっただろうと思われるからです。つまり生活する上でそれがあれば便利な

のとして認知される物資が「お金」として位置付けられていったのでしょう。

 また「お金」は必要なものを入手するために使われるものであって、身の回りで必要を感じさせない、

例えば空気や水のように存在することが当り前のものばかりで生活が囲まれていたら「お金」は生まれな

かったと想像するのは難くないことです。しかし、手元にはないが何としても自分が必要なものを得るた

めにそれを持つ相手に渡すもの、つまりその時必要なものを購う支払い手段となるのが「お金」というわ

けです。

 そして忘れてはいけないのは、「物々交換」が原初の形態ですからそれは「等価」(=ものとしての価

値が等しいこと)で行われるということが人と人との間で了解されているということです。「物々交換」

ですからどちら側かに不足感があれば不足な方の供出を増やして「等価」と相互に了解されるように調整

(交渉)されたはずです。やがて「物々交換」から一歩進んでそれを媒介し、「等価」を共通認識させ

保証する性質を備える物資が「お金」の役割を果たすものとなっていったと考えられます。そのようにし

て「等価」を誰でもが容易に識別できるものが「お金」だということなのです。そして同じ分量の物資の

「お金」は基本的に常に「等価」でなければならず、もしそうでなければそれは「お金」の役割を果たさ

ないので、その物資は支払い手段として利用されなくなってしまったことでしょう。

 以上を要するに、「お金」の本質的コンセプトは“利便性”にあると言っていいでしょう。そしてこの

「お金」の性格は太古から今に至るも変わることのないものなのです。

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