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2013年7月

2013年7月31日 (水)

「性格」‥54

 先にアル中のことに触れましたので、この話を少し。20代の独身時代に身近な知人がある年と翌年と相次

いでこの病状に陥りました。最初は寮の隣の部屋にいた私より5歳上の人で、これは失恋がきっかけでした。

同じ職場の女性に惚れたまでは良かったんですが、デートに誘うこともできず、グズグズしているうちに彼

女がどこかの男といい仲となっていると噂になり、それで毎晩ヤケ酒をあおるようになってしまいました。

そのうちに寝付けなくなって目が虚ろとなり、時々あらぬことを口走るようになりました。しかし元々変わ

った人でしたから常態ではなくなっていると最初は思われなかったのです。私も一緒に飲んだ折に涙を浮か

べながらガラスのコップをバリバリと噛み砕いてしまった時に“これは!”と気付くに至ったのです。程な

く近くに嫁いで住んでいた身内(姉)の人に連絡を取り、地元地域の神経科病院へ入り半年余り入院してい

した。退院してからは大人しくなり、数年後に見合い結婚をして家庭を持ち落ち着いたのでした。

 もう一人は別の会社の学生時代の友人で、スポーツ新聞の記者をやっていたのですが、仕事で溜まったス

トレスを酒で解消しているうちに依存症となり、家(アパート)の近くを缶ビールを手放さず徘徊するよう

になったのです。ある時新聞社の上司と称する人から職場の私に電話があり、○○君の帰宅後の行動がおか

しいので友人の私に様子を見て欲しいと言うのです(○○君の身上書の友人蘭に私の名前と連絡先が記載さ

れていた)。その上司の言い分にも呆れたのですが、ともかく定時で退社すると同じ私鉄沿線なので友人の

家に直行しました。友人は家にいてビールを飲んでいました。これまでにも時々外で共に飲んだりもしたの

ですが、彼の家に来たのは初めてでした。仕事の話やら交わした後、友人は眠いからとウトウトしたと思う

と、やおら起上がり近くの自販機まで缶ビールを私の分まで買いに行くのです。私も付き合って飲みながら

それ程極端に変わったところもなさそうなので帰ろうとすると、帰らないで一緒にもっとビールを飲もうと

言うのです。友人宅からはタクシーで簡単に私の寮に帰れると思い、もう少し付き合ってみることにしまし

た。缶ビールがなくなると今度は私が買いに行きました。さらに話を聞いてみると、どうやら最近はほと

んど眠れなくなっているようでした。そうしている内に白々と夜が明けてきて、鳥の声や人の足音、車の音、

始発電車の音などが聞こえて来ました。すると突然友人は幻聴を訴え叫び始めたのです。「お!俺のことを

宇宙人だと言っている」「何?やっちまえ、やっちまえだって?」「え!死ねだと?」‥‥という調子な

のです。彼の上司の言った“様子”とはこのことだったのです。すっかり明るくなってから私は友人を連れ

てタクシー乗場に向かいました。友人はいわば「正気」と「狂気」を行ったり来たりする状態ながら何とか

説得でき、私は前年に知人が掛かった病院へ連れて行ったのです。朝の内に私の会社と友人の会社に電話を

入れ、病院からは友人の実家に連絡して家族に来てもらうことにしました。‥‥友人は結局実家の地元の方

の病院にやはり半年ほど入院しました。その後退院して職場替えをしてからは順調で、仕事で知り合った女

性と家庭も持ったのです。

以上の事例は、真因は恋や仕事の悩みとは言え、直接因は共にアルコールが引き起こした病状(依存症)

ったのです。‥‥酒は毒にも薬にもなるものなのですね。

2013年7月30日 (火)

「性格」‥53

 一昔前の会社風景の一つに慰安旅行(社内旅行、職場旅行と呼び方は様々でしたが、製造業やサービス業

を問わずどんな会社にもあったもので、学校の遠足と同じものでしょう。また“慰安”という言葉について

は最近では違和感もあるかも知れませんが)というものがありました。日頃のそれなりに厳しい仕事を離れ

て、会社生活はこういう楽しいこともあるのだと“わざわざ”会社が執り行なってくれる大事な催し事でし

た。社員の旅行積立金と会社の援助金とで賄われていたと思います。

 さて、夜になって宴会となり、最初に職場の長(会社の規模や業態によりそれは社長、本部長、部長、支

長、工場長‥‥と様々でしょう)が挨拶をやります。そこで決まって言われる言葉が“今日は無礼講で

くやりましょう”というものです。そしてこの“無礼講”が人によっては後々運命を左右することになる

です。この長の方々はどれだけの意味を込めてこの言葉を使っていたのでしょうか。文字通りの意味は

身分・地位を無視して行なう宴会(大辞泉)」です。つまり、日頃職場において気を使っている上司・部

の区別をなくして今日の宴会を皆で楽しみましょうということです。わざわざ長の地位の人がそれを言う

は社員の慰安会なので全員がリラックスして心底から楽しんでもらおうとしてそう言ったはずなのです。

 さてこの“無礼講”の号令のもと酒を飲み始めると例の「本性」が出るのです。いやよく見れば、本性を

し過ぎる人、適度に出す人、ほとんど出さない人の三様なのでしょう。新入社員は日頃の遠慮勝ちが板

いてしまい、酔っても遠慮した様子は消えず時には遠慮したまま酔いつぶれたりします。長及びそれに近

ラインの人間は自信のなせる業からか、ゆったり余裕を見せながら寛いだ風情でいます。問題が起こるの

日頃何かと上と下との板挟みにある中堅幹部と古参の平社員のところです。彼らこそストレスとウップン

塊(かたまり)なのです。どんな組織であれこのような立場にいる人間は多かれ少なかれいるのです。そ

て彼らの全員ではなく特定の者がこの“無礼講”に過剰反応してしまうのです。‥「そうか、今日は誰に何

を言ってもいいのか。わざわざ本部長がそう言ったんだからな!」と大合点するのです。そして遠慮も緊張

も雲散霧消した気分となった時、やおら立ち上がるとラインの誰かを指差しながら「私はね、この際だか

ら、はっきり言わせてもらいますとね、☓☓さん、あなたがいつも仰ることはおかしいと私は思う!」とぶ

ち上げるのです。新人はキョトンとし、女子社員はア然としたり聞こえないふりをしたり、同僚は薄ら笑い

を浮かべ、指差された本人は苦笑しながらも動じず、他のラインからは非難がましい視線が注がれ、部長

は無表情で言わせるだけ言わせようという顔です。そしてこの無礼講社員は言うだけ言ってしまうと、あま

り気にした様子もなく座るとまた料理に箸を伸ばし、気を回した他の平社員が酌をしてくれるのを嬉しそう

に受けているのです。

‥‥そして半年余りして出たこの社員の転勤辞令に誰もが「ああやっぱりあの時の‥」と納得するのです。

2013年7月28日 (日)

「性格」‥52

 自分の病気でしばらく友人との飲み会への参加を絶っていましたが、今週誘いがあり久しぶりに顔を出し

ました。もちろん事前にかかりつけ医に伺いを立て了解も取りました(不思議なことに今までダメと言われ

たことはなく、ここ2ヶ月弱の禁酒も自主的なものでしたが)。半年以上も顔を見せないと「アイツもそろ

そろダメらしい」となるのがこの飲み仲間の通念なので、それをクリアーしておきたいと思ったのです。逆

に仲間の方では飲み会に誘うことで私の病状を確認する狙いもあったようです(これが飲み仲間の“気遣い”

なのです)。今回は6人の少人数のもので、先月上旬に開いた元の会社の定例の同期会での30数人のうちの

有志の集いでした。そして彼らは私の意外な飲みっぷりを見て安堵したようでした。

 ところで、よく酒でその人の本性が分かるというようなことを言います。これは普段は人が抑制し隠して

いたものが酒の酔いによって気が緩み本来持っている性格(本性)が現れることを言うようです。これは

を飲む本人にとって、あるいは周りの人にとって都合の良いことにも、悪いことにもなるのでしょう。本人

にとって良いのは、緊張した気分から開放されて本音を言うことができウップン晴らしになる(ストレス解

消になる)こと、本人にとって悪いのは、他人に隠していた性癖・本心が知られてしまい、先入見を持たれ

たり見下されたりしてしまうことでしょう。つまりこれは人間の付き合い上のことですから、本人にとって

のことは、これがそのまま周りの人にとっての良いこと、悪いことに反映するというになるわけです。周り

の人にとってはまず、飲んで楽しい人間か嫌な人間かがはっきり分かりますし、しらふの状態では見えにく

かった腹の底が見える(言うなれば“友か敵か”がはっきりする)ということになります。これはただ一度

で分かると言うよりは、何回かの酒付き合いを重ねて確かめられていくのが普通でしょう。

 酒のそうした人の本性の判明という効用は、アルコールの持つ麻薬作用にあるのは言うまでもありません。

アルコールが精神(神経)に作用し麻痺させコントロールを失わせるのは誰もご存知の通りです。そして麻

薬と同じで過剰に常用すれば中毒(アルコール中毒)になるので、これは愛飲家が日頃から特に留意しなけ

ればならないことであるのも間違いないことです(ただここで飲み過ぎに起因する病状的なことは第二義的

な問題としておきましょう。今回の私もそれですが、養生の次元の話ですから)。また酒をもともと体質的

に受け入れない人は、かく言う酒飲みの理屈を“反面教師的な”今後の(酒飲みと付き合う)判断材料とし

ていただければいいと(かってながら)思うのです。

そういうわけで、酒にまつわる幾つかのエピソードを話してみたいと思います。

<身近な夏の花は同じようなものばかりですね>

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2013年7月19日 (金)

「性格」‥51

〚人殺しと平和〛

 

日本国憲法の見直しについて述べました中で焦点となりました、「平和」というものについてもう一度述べてみたいと思います。憲法の条文から取り除くべきと言うものの、これが重要ではない概念であるはずはなく、それどころか語っても語り尽くすことの出来ない、人間社会における「キーワード」であることは間違いないからです。「キーワード」であっても憲法条文から取り除くべき理由は前回までに述べましたが、ここでは改めて一般論から「平和」とは何かを探ってみたいと思います。

 人を殺すことがいけないとされる理由は、つまるところ人の社会の平和を乱すからでしょう。人が人を簡単に殺すことがまかり通る世の中は決して平和ではありません。その社会が平和かどうかを判断する基準は、簡単に言えば、人が殺されないことが保障される仕組みが出来ているかどうかなのでしょう。具体的には人殺しを抑止する法制度が存在し、それが厳格に遵守されているかどうかということになります。

 従って、例えば人殺しは重罪でありこれを犯す者は死刑≪これも人殺し≫となる法制度を世界の過半数の国が制定しています。二重カッコ書きしたのはここに大きなポイントがあるからです。つまり、人殺しという社会の平和を乱す最大の罪を犯した者は罰として社会によって殺されるのです。端的に言って、この仕組みによって社会の平和が維持されると言えるのです。これは洋の東西を問わず昔から今に至るどんな時代でも変わらない基本的な「掟」(人間が考えた「死の掟」)と言っていいでしょう。死の罪は死の罰によって償うというものです。今に至るまで、人間の智恵の及ぶところこれに勝る説得力を持つ解決方法はないということになります。

※ 死刑廃止論はここでの議論の線上にはないので(罪人の更生方法の議論であり、人殺しを防止する議論ではないので)ここでは除外します。

一方、人間は平和のために人殺しをします。言うまでもなく国家間や民族間の戦争のことです。自分(自国)の平和を成就するために相手(相手国の人間)を殺すのです。この場合は自分(自国)こそが平和をもたらす正義の立場であると双方が確信して殺し合うということです。従ってより多くの相手を殺した者はその国では英雄として扱われ、相手国にとっては極悪人となるでしょう。この平和のための戦争は昔から今現在も続いています。そしてもち論、戦争をしている双方の国内においては、最初に述べた平和を守るための人殺しの掟も守られているのです。これを神の目で見れば、人間とは何と身勝手な罪深い者どもだということになるのでしょう。しかし神の目で見て嘆いたとて、世の中の人殺しや国同士の戦争がなくなる訳ではありません。今の現実の話として、何か事が起こればそれぞれの局面でそれぞれの現場において是とする解決をしていく以外に方法はなく、その最終的・効果的方法が死刑であり戦争であるということを認めない訳にはいかないでしょう。

 戦争はひとまず置き、世の中の人殺しのことを考えてみましょう。最初に言いました通り、人殺しはいけないとして禁ずるのは平和を乱すからです。これ以上でも以下でもありません。この「平和」にすべての意味が込められているのですが、平和とは何であるかといえばそれは誰でも理解できる通り、「人々が仲良く暮らす」ということです。「人々」とはその社会の中のあらゆる人間関係が含まれるでしょう。つまり、親子、兄弟姉妹、夫婦、隣人、友人、学校友達、先生生徒、会社の同僚、上司と部下‥‥‥ときりがなく続く人間関係のことです。「仲良く暮らす」とはなにも年がら年中くっついてにこにこしている状態のことを指す訳ではないでしょう。笑ったり、楽しんだりもするでしょうが、相談したり、議論したり、命令したり、時にはケンカもしたりするはずです。要するに普通に暮らしているということですが、唯一殺すことだけは含まれないでしょう(もちろん相手が死に至る暴力、脅し、いじめ等も殺すことに含まれます)。従って消去法的な言い方をすれば、「平和」とは社会において罪もない人が理不尽に殺されないことが保障されている状態のことだと言っていいのでしょう。そしてそのために社会が設ける規則が憲法なのです。

もうここまで言えばお分かりになるでしょう。憲法の存在理由が「平和」なのです。憲法の条文でわざわざ「平和」を謳うまでもないのです。憲法が在ることが即ち「平和」なのです。

2013年7月13日 (土)

「性格」‥50

〚まとめ〛

 

以上の諸点を踏まえ、私は日本は今から4050年先を睨んで真の国家的戦略を構築するための憲法改正は必要であると考えます。それは21世紀の半ば頃の未来の日本を描く上での改憲というものです。これまでの70年近い“無考察(ノーアイデア)”の時間を取り返すにはそれ位の時間展望が必要だと言うのは大袈裟でも何でもないでしょう。今の国民(為政者ももちろん含む)の90%以上(あと10年もすればほぼ100%)はこの無考察状態に陥っており、しかも今さら頭を切り替える気力は失われていると思われるからです。人間が一度自分から固定してしまった「性格」というものは、放っておいて変わるものでは決してありません。それでも今から準備としての行動を起こすことの方が何もしないよりは比較にならないほど意味を持つはずです。それは21世紀半ばの日本人自身に呆れ果てられてしまわないためにもです。

従って憲法改正は96条を変えて9条を変更するという“姑息”なことではなく、抜本的な書き直しをやるべきなのです。憲法改正は戦争や、革命、占領政策下でなければやってはならないと決まっているわけではありません。平常時に独立国家が国民的合意のもとで全面的な書き直しが必要と判断することに何ら不自然さ、異常さはないはずなのです。現状にそぐわなくなっている憲法を歪めて解釈し護持し続けることの方がよほど異常だと言えるでしょう。1990年代の中盤以降日本は政治的にも経済的にも、ひいては社会全体の雰囲気が閉塞感・停滞感に覆われています。こうなってしまった、目に見えず意識されない原因が“平和主義の日本国憲法にある”と言ったら奇弁過ぎて誰も彼も呆れるかも知れません。しかし、この状態を脱却するには日本人全体の気持ちの立て直しが必要なのだと言って間違いではないでしょう。日本人の気持ちの立て直しをするために、憲法改正(全面書き直し)に優る方法が今考えられるでしょうか。そして、これを行なうのが政治家でなくて誰なのでしょうか。身をなげうって国民的議論を惹き起こす役割を担うのが本来の政治家なのです。

だがこれは1年や2年で出来るなどという生易しいことでは絶対にないでしょう。それは、例えば最初の5年間で国全体で議論を高め、次の5年間で憲法改正(全面的書き直し)を実施するといった10年位の時間を要するものでしょうし、それ位の時間を掛けるべきものです。もちろんこの期間は同時に諸外国に向けて十分な説明・情報提供を行なう必要があります。とりわけ現憲法を実質的に制定したアメリカに対しては意を尽くしてこれを行わなければならない(非常なハードネゴとなるでしょうが)ことは言うまでもありません。ただしそれはアメリカの意向を伺うといったものではなく日本の明確な考え方を伝えるということなのです(憲法は本来的に他国の承諾を取るというものではない)。

 

そもそも憲法の存在理由を考えてみますと、日本という国が存在し、そこに日本語を話す国民がいて、明らかに他国とは区別される社会を形成している。その社会が内部あるいは外部からの圧力に脅かされることなくその国民の生活が保持されるために、社会が設ける規則が憲法なのでしょう。そして個人でも、党派でも、どのような権力でも憲法違反は罰を受ける、即ち国民の合意により成り立つ憲法にこれを乱用する権力などあり得ないのです。国民が作った憲法は国民によって守られる、ただそれだけでいいはずです。そうした土台の上に、基本的人権が尊重され、三権分立があり、軍事力も持つという形が出来上がっているということです。

誰もが知っている通り、日本は昔から外部の知恵を取り入れながら国家を、文化を築き上げて来ました。話し言葉だけの日本語に漢字を取り入れ、仮名文字を発明し、律令制を取り入れ、仏教を取り入れ、儒教を取り入れ、‥‥近代において民主主義を取り入れました。これらすべては、試行錯誤しながら日本に合うように精妙に改良され、洗練された形へと変えながら取り入れてきたのです(ただ民主主義はまだ道半ば、洗練途上でしょうが)。これがいわば“日本流”と言うものでしょう。ですからこれからやるべき憲法改正もこの原点に立ち返って“日本流”に書き直すと言う考え方を基本とすべきです。換言すれば“新しく書き直す憲法は日本の文化を体現する”という一念で行なうべきものです。そして一国の文化に外部から異論が出ることなどないと確信していいのです。文化的産物に対しては“崇敬”こそ寄せられても“唯我独尊”といった誹りは受けないものと信ずるのです。

以上

 

<夏の花>

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2013年7月11日 (木)

「性格」‥49

10.アメリカは平和理念(平和主義)でがんじがらめにした憲法を日本に押し付けたが、そのアメリカ自身は平和理念とは程遠い、むしろ戦争好きと形容できる政治を建国以来行なってきたのであり、これは現在までまったく変わっていない。むしろこの傾向はナンバーワンの超大国として世界に君臨するようになった最近において一層顕著である。このことをアメリカに問い詰めれば「平和のために戦争をするのだ」という判で押したような答えが返ってくるだけであろう。つまりアメリカの主張する平和理念(平和主義)はまったく“空言”(内容のない語)と言えばいいものなのである。

  あるいは「平和」ということが極めて矛盾を孕んだ概念なのだと言える。“平和のためなら殺人も厭わない”という言い方が通用してしまうものなのである。これは戦争に限ったことではなく、(社会の平和維持のため)重罪に死刑を適用するのも同じ意味合いであろう。そう考えれば「平和主義」を掲げる点には本質的に危うさがあると言えるのである。そしてこのことと、平和理念(平和主義)を根本に据える日本国憲法がどう見ても明らかな“行き詰まり”症状を呈していることとは根は同じだといって間違いなかろう。

   私はアメリカそのものが嫌いというわけではない。アメリカの文化、ジャズや映画、野球やボクシングなどのスポーツ文化には素直に憧れる。しかしアメリカの国家体質、例えば太平洋戦争でもう99%勝利が決まっていたにもかかわらず10万人単位の無辜の人間が死ぬことが確実な、しかもその効果を確認したいがために、原子爆弾を投下する国家意志(これはミレニアム次元の、つまり1000年に1度あるかないか位の極悪非道と言うのが至当であり、永久に人類史に刻印されるだろう。この時も、平和のために原爆を使用したのだと言っている)に対しては払拭しようのない嫌悪感を持つ。日本の憲法がそのような国家意志の落し子であるならば、これを詔勅(みことのり)よろしく奉りどこまでも自己卑下する日本人とは、一体どのような“性格”になり果てたのかという思いなのである。

 

 

ここまで書きますと、平和理念を憲法から取り除くという考えに対しては大きな非難、怨嗟が沸き起こるだろうと思います。「戦争をしたいと本気で考えているのか!」あるいは「この世から戦争をなくすという考えのどこが間違っているのか!」と。

私は平和という言葉(理念、主義)を前面に出すことによって戦争を忘れる(ふりをする)、戦争がないものとするという仕組を敷く(憲法を定める)ことに強い疑問を持つのです。これは「平和によって戦争を覆い隠す、即ち戦争の隠蔽工作をする」ことに他ならないだろうと思うのです。なぜなら、私はこの世から戦争がなくなるとは本気で考えていないからです。もしこの世から本当に戦争を廃絶しようとすれば、人間の闘争本能を司る遺伝子を抜き取る医術を施す(それが可能だとして)以外に方法はないだろうと思います。だがそうして造り出された人間は人間と呼べるでしょうか?

あるいは“地球上のすべての国が平和憲法を制定すればこの世から戦争はなくなる”というテーゼが正しいか誤っているかということなのでしょう。平和論者は正しいと言い、私は誤っていると言います。こうなるとこれは信念、あるいはイマジネーション(想像力)の問題で、実際に実行する以外に証明出来ません。さらにもう一歩進めれば、平和論者はこれが実行できると言い、私は実行できないと言います。‥‥皆さんはどっちですか?

〚次回がまとめです〛

2013年7月10日 (水)

「性格」‥48

  ⑩  護憲派の抱く意見に、世界の多くの国が日本の「平和憲法」を模範とし憧れているというものがある。これは自家撞着も甚だしい錯覚である。世界の多くの国が本気で憧れているなら日本的「平和憲法」を制定する国がどんどん出てきても良いはずである。しかし今までそんな話は聞いたことがないし、今後もまずありそうもない。仮に日本の憲法を褒める外国の為政者がいても、その国が日本と同様の「平和憲法」を制定しない限りそれはほんの“外交辞令”に過ぎないのである。

現状の世界情勢の展望の中でどこの国がそのような憲法を持とうとするだろうか。

もう一つ付け加えれば、日本は「平和憲法」があるために国際紛争に巻き込まれることなく平和が維持されているというものがある(平和憲法を盾に自分が平和を守ったとまで言う図々しい輩もいる)。これは上記の錯覚をもう一回り上回る錯覚であろう。日本は朝鮮戦争でもベトナム戦争でもアメリカから参戦を要請などされていない。あったのはただ国内の軍事基地をアメリカ軍の兵站基地として使うという方針であり、しかも使用に関する事前の要請(事前協議)などもなかったのである。それは当然である。アメリカは日本の憲法に“非武装”と“戦争放棄”を盛ったからには日本を戦争に引き入れることは明らかな矛盾であり、自ら日本の憲法を無効にするようなことをする訳にはいかなかったからである。

このような事実を無視して「平和憲法のおかげ」を云々することは“お人好し”どころか“お目出度い”というレベルであろう。この確かめようとさえすればすぐに判明するようなことをなぜやらないのか理解に苦しむのであり、このようなことをこそ“思考停止”と言うのであろう。

 ⑪  一方、アメリカの立場からすれば、日本の憲法改正の動きは面白くないことであろう(当初から予期していたにしても)。実質的に自分が制定した憲法が否定されることを意味するからである。事実、最近の日本の改憲論の高まりに対し、“日本は太平洋戦争の敗戦、無条件降伏という事実を認めないつもりなのか”という感情論まで見え隠れし始めているのである。日本の改憲論者の頭から最も抜け落ちている点は実はこれなのである。そして忘れてはならない非常に重要なことはアメリカは今でも、そして今後も日本が軍事強国になることは望んでないという点である。アメリカは日本と“対等な”軍事同盟を組むなどとはこれっぽっちも考えていないのである。このことは今後どうあろうとアメリカの利害と対立する点なのである。アメリカは20世紀に日本と戦争を行ったことは決して忘れるはずはなく、将来的にも日本との戦争など起こり得ないとは決して思ってないはずである。従って日本の軍事力の明確化(増強)は現行の日米安保条約の大幅見直しに繋がることは避けられないだろう。それは“沖縄の米軍基地移転問題”など比較にならない重大な問題を惹き起こすであろう。それは好むと好まざるとにかかわらず、多かれ少なかれ軍事対立、軍備競争の意味合いを孕むからである。その交渉は想像を絶する“ハードネゴ”となるのは間違いなかろう。今の日本の為政者にその認識があるかといえばまったく覚束ないとしか言えない。はっきり言えばこの見識・覚悟を持った政治家は今の日本にはいないだろう。未だ生まれていないと言えるほどかも知れない。それを育む社会世論的、社会教育的環境が存在せず、この見識を具えた政治家が輩出するのは程遠いお伽話の世界のことのようになってしまっているからである。

   日本は戦後70年近くを経過して、国家の、政治の大本を考察する基盤を失ってしまったと言わざるを得ない。いや正確には、この基盤を自ら放棄して何とこの“無(ノーアイデア)”の状態にすがっている有様だと言っていいだろう。つまり被占領国体質が足先から頭のてっぺんまで染み付いてしまったと言っていいだろう。

⑫  以上の“ノーアイデア状態”を身を以て世に晒してしまったのがつい先頃の前民主党政権の鳩山由紀夫なのである。「沖縄のアメリカ軍基地の国外移転」という国内向けには極めて耳障りの良いことを掲げて自民党から政権を奪ったものの、いざアメリカとの交渉に臨もうとした鳩山由紀夫は“非常に哀れな有様で”首相を辞任した。最近の首相交代はほとんどが(つまらない)国内的理由だけからのものが多いが、このケースは典型的な「外交の失敗」によるものである。しかしこの“大失態”を笑える日本人がいるのであろうか。鳩山由紀夫の恥は日本人全体の恥であったはずである。特に自民党はまったくこの資格はない。戦後の長きに渡りこの路線《アメリカの言うことだけを素直に聞いていればいい》を敷いてきたのは自民党に他ならないからである。

アメリカは日本の国内事情を慮って自分の戦略的軍事基地を他所へ移そうなどとは夢にも考えていないのである。私達日本人はこの出来事で一体何を学んだのだろうか。最近「失敗に学ぶ」というようなことがもてはやされているが、本当に失敗に学ぶのは実は容易なことではないのである。

 ⑬  今回の安倍晋三の改憲準備の動きは、改憲の最終ハードルである国民投票の実現を図ろうとするものだが、果たしてその先で待ち受けているアメリカに対する“ハードネゴ”を乗り切る覚悟・ヴィジョンを持っているであろうか。私には単なるムードがあるだけで(尖閣や竹島で国民感情が煽られただけで)、鳩山由紀夫の“ノーアイデア”とそう遜色なく見えてしまい、篤志政治家らしい捨て身の深謀遠慮は残念ながら伝わってこない。国民世論を沸騰させるべくストレートな見解表明(なぜ「平和理念」「非武装」を改めるのかの納得の行く説明)をしないまま手続き面だけ先にやろうとしているからである。本当に議論百出した国民全体の意見を踏まえて事に当たらなければ、誰が何度やっても失敗するのは目に見えている。しかし何度も言うが、これは決して簡単なことではない。アメリカは自国の利害においてメリットを明白に認識しない限り軍事戦略において他国に譲歩するなどということは絶対にないからである。極論すれば、日本の憲法がどうなろうとアメリカが不利になる選択(軍事的・外交的)をすることなどあり得ないのである。

2013年7月 9日 (火)

「性格」‥47

9.これはアメリカ自身の正確な証言がない限り、推定する以外にない。アメリカではこのようなことがある程度時間が経過してから開示されることが多いが、今それをすれば日本の世論に大きな影響を及ぼすことは必至なので当分(半永久的に?)これが開示されることはないだろう。従って、以下の様な推定を行なう以外にない。

 ① アメリカと戦争して降伏した日本に対して、二度と戦争を行なえない国にするために軍備を持たない、「平和理念」・「非武装」を基調とした憲法を日本に制定した。つまりアメリカに刃向かい1516万人のアメリカ人を殺した罰(制裁)として日本にこの憲法を作ったのである(第二次大戦で戦死したアメリカ人は、欧州戦役で60%、太平洋戦役で40%と言われている)。

 ② アメリカは自らの憲法では達成できていない「平和理念」・「非武装」を謳った理想的“平和憲法”を“試験的に”日本に制定した。なぜならアメリカにもこのような憲法が一国の憲法として成り立つものであるか(現実に持続的な運用が可能であるか)の確信などなかったからである。

 ③ アメリカは戦勝国として降伏国日本に対して自らが作った憲法を制定したものの、日本が独立した将来において運用上の困難が生じれば日本自身が憲法を改定する動きを起こすことは当然想定していたと考えられる。

 ④ 特に国防上の困難が軍備を持たない点から起こることに備えて、アメリカが日本に対して国防上の安全保障をする必要があると認識した。これが「日米安保条約」の存在理由であった。

 ⑤ アメリカの抱く期待の主軸は、日本が憲法運用上の困難が生じることなく、従って「平和理念」を崩すことなくこの憲法が維持継続されることであり、日本が再び軍事強国ならないことであった。そしてそのために必要な軍事的および経済的支援を行なっていく。これは特にソ連・中国という共産主義大国の出現・台頭により資本主義陣営のリーダーを自認するアメリカが日本を東アジアにおける防衛線と位置付ける過程においても基本的に変わることはなかった。

 ⑥ しかし朝鮮戦争が勃発した1950年に日本に「警察予備隊」が設置され、1954年に「自衛隊」となった(もちろんアメリカの主導で行なわれたものである)。これは憲法が謳う「平和理念」に基づく「非武装」の事実上の放棄である。理想的憲法に訪れたいわば最初の“綻び”と言っていいだろう。それでも憲法条文の見直しを行なうことはしなかった。だが今日に至る憲法改正論議の芽はここで生まれたのである。

 ⑦ ソ連を筆頭とする東欧共産主義圏が崩壊し、中国が共産主義の旗を掲げながらも経済的には資本主義化するという世界の政治的環境が激変した現在において、アメリカは日本をどう位置づけているのであろうか。日本の憲法、日本の軍事力、日本の政治的方向(日本の役割)をアメリカはどうあるべきと考えているのか。この分析なくして憲法改正論議は不毛であろう。

 ⑧ ソ連の事実上の後継国ロシア、経済大国となってきた中国、インドや経済的プレゼンスを高めているアジア・アフリカ・南米等の新興諸国が存在するのが現在の世界情勢である。そうした中で、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、ユダヤ教等を背景とした宗教対立・民族対立に根差す紛争は今も跡を絶たない。跡を絶たないどころか激化する様相を呈している。これを俯瞰して言えば、経済的には資本主義的競争の激化、政治的には宗教・民族の違いからくる戦争の頻発、これが現在のそして展望可能な将来までの世界の姿であると言っていいだろう。

⑨ そのような時に、既に形骸化した「平和憲法」を護持することは余りにも“お人好し”であろう。否それどころか国民および諸外国に対して“無責任”であろう。なぜなら上のような問題が起きた時に問題解決の責任は負えない、負おうとしない、もっと言えば責任を負うという信頼を回りから得られないであろう。耳障りの良い言葉を色々並べたところで本当に当事者の立場になって擁護してくれる国とは見られないであろう。相手がどのような体制の国であれ国家関係とはそのようなものだからである。自国の国民の命がかかっていればその国の責任者は他所の国の“空手形”など決して受け取れないはずだからである。

  「平和憲法」を掲げる国がいざ危うくなると「軍事大国」にすがるというのはイソップの寓意にこそなれ、“尊崇”とは正反対の国の姿でなくて何であろうか。

2013年7月 7日 (日)

「性格」‥46

日本国憲法について

 

参議院選挙を前にして憲法改正論議が盛んです。最初にこの論議が起きてからそろそろ20年位経つのでしょうか、私は改憲にしろ護憲にしろ次のことは共通認識とされなければならないと考えます。そうでなければこの論議をどれだけ長く続けてもただ不毛なだけであるとはっきりと言っておきたいのです。そもそもこれが共通認識であるかどうかの議論すら果たしてないように思います。改憲論議の出発点であるはずのことがもしなされないままであるならばこれほど日本にとって片腹痛く不幸なことはないでしょう(端から見れば愚かな国民にしか見えないのではないでしょうか)。

私はこの23年感じていたことを文字通り“つれづれなるままに(暇にあかせて)”書き連ねてみました。賛同を求めると言うよりは、このようなことが気になりませんか?の類の話です。34回に分けて続けてみます。

 

1.現在の日本国憲法はアメリカによって作られたものである(100%と言っていい)。

2.この憲法の根幹を貫く「平和理念」もアメリカの意図によるものである。

3.なぜアメリカは「平和理念」を基調とした憲法を日本という他国のために作ったのか。

4.「平和理念」と表裏一体をなす理念は「非武装」である。日本国憲法においてこの二つの理念は互いが互いを担保するものとなっている。つまりどちらかが欠ければどちらかの存在理由はないのである。憲法の成文がそのような形で成り立っている。

5.一方この憲法を作ったアメリカは1787年に制定した自国の憲法においては民主主義的「独立精神」を基調に置いている一方、「平和理念」も「非武装」も成文としては書かれていない(今はネットでアメリカ合衆国憲法が確認できます)。

6.これはアメリカという国家の成立経緯によるものである。つまりイギリスからの独立を謳った「独立宣言」がアメリカの憲法の基本理念となっているのであり、そこにおいて「三権分立」と「大統領制」「連邦制」という強固な政治体制の確立を謳っているのである。その底流にあるのは個人の「権利」「自由」「平等」という基本的人権の概念であり、さらにこれらすべての根本にあるのはキリスト教的な「神の法に対する遵守」の考え方と言っていいだろう。また合衆国の憲法は基本的に条文が書き換えられることはなく、改正要件が起これば修正条項が書き加えられていく形をとっている。現在までの220年余りの間に書き加えられた修正条項は27ヶ条を数えている(有名なものは、言論出版の自由、個人の武装権、奴隷制の廃止、女性参政権など)。

そしてこの間にアメリカが行なった戦争は、メキシコ戦争、南北戦争、第一次および第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争(間接介入を含めればもっと多い)である。そもそもアメリカの歴史はイギリス(殊にピューリタン)を始めとするヨーロッパ人が新大陸に植民移住して領地を獲得したのがスタートであり、それ以降は戦争とともに世界の超大国へとその地位を構築してきたのである。つまりアメリカは憲法で「平和」や「戦争の放棄」を謳うべくもなく、そのような理念の基礎の上に国家を成り立たせてきたのではないということである。

7.以上から言えるのは、アメリカは自らの憲法では達成していない(条文のどこにも謳ってない、その意味では無縁な)「平和理念」・「非武装」を具えた“理想的憲法”を他国である日本に制定したということである。

8.もう一度問うが、ではなぜこのような憲法を日本という他国のために作ったのか。

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