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2013年8月

2013年8月31日 (土)

「ハチ」‥4

 店の名前の「インタープレイ8」の由来をお話しましょう。“インタープレイ(interplay)”は相互作用、

交錯といった意味ですが、ジャズで言われる場合は生き生きとした演奏交歓のことを指すのでしょう。ピアノの

ビル・エヴァンスの名盤にも「インタープレイ」というのがあります。ユニークなのは“8”の方で、これは店

のオーナーであるハチママの誕生日が昭和888日であることからきています。実に縁起のよい日に生まれた人

です。恐らくご両親は大変喜んだのではないでしょうか。「ハチ」を書く前にホームページを見ましたら、ハチ

ママの80回目の誕生日パーティーの案内が載っていました。ご健在で何よりです。今は実質的にご子息が店の切

盛りをしているはずです。店の開店は昭和34年(1959年)88日で、栄枯盛衰の激しいこの業界で半世紀以上も

続いているジャズの店は日本全国でも少なかろうと思います。私が通っていた頃に開店20周年の催しがあった時

ですら、“こんなに長く続いているジャズの店は大阪でもめずらしい”との評判で、ハチママが自慢していたく

らいですから。そしてハチにおいて一年で最も重要な日は常に88日となっているのです。

 マスターの“お兄ちゃん”はハチママより少し年上の従兄で、元々は関西で活動していたジャズマン(トラン

ペッター)だったのです。残念ながら私が大阪を離れて暫くして亡くなられました。ハチの何人かの常連と一緒

に行った北海道のスキー場で滑っている最中にクモ膜下出血でたおれたのです。東京の職場にいた私にその第一

報をくれたのはその常連の1人からでした。開店以来ハチママを支えてコンビを組んでやってきた人だったので、

ハチママの落胆は並大抵のものではなかったようですが、よく持ちこたえられたものだと思います。私が通って

いた頃には、たまに店でのライブセッションに加わって演奏したものでしたが、さすがに元プロ奏者、常人には

とても真似のできない技量で、時には雷鳴のような迫力で時には海のさざ波のような繊細さで音程、音量、テン

ポを変化させながら吹くトランペットの音は今でも鮮明に私の耳の奥に残っています。独身のままジャズに捧

げた生涯だったのです。

 今、事実上ハチを継いでいる子息(アキボー:あきとし氏)は当時はまだホヤホヤの学生で、時たまハチにも

顔を出していました。ピアノも弾けたのですが、本格的にその道に進むのは既に断念していてお兄ちゃんの死去

を機に店に入ったということで、ハチが持ちこたえられたのもアキボーの存在が大きかったのだろうと思います。

‥今でもアキボーと呼ばれているのかは知りませんが(前回の集合写真でお兄ちゃんの左側にいるのがアキボー

です。今では50代半ばのはずです)。

 

<ビル・エヴァンスの「インタープレイ」のジャケットです>

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2013年8月29日 (木)

na noriさんと我家の庭でボーリングです。ガターしたボールは宇宙に消えます。

「ハチ」‥3

 名前(ハチでの通称)はすべてハチママが付けるのです。それは実に気儘なやり方で、基本的には思い付き

のですが、本名の一部からとったり、住居地から、職業から、意味不明なのまで色々あるのです。例えば

箕面に住むミノさん、大工のトウリョウ、ホリちゃん(姓が堀)、ヤノちゃん(姓が矢野)、シバラク(雀

荘「暫く」の元オーナー)、オーちゃん(不明)、セイジン(名が成人)、チュウジ(姓が国定)、ミカヅ

キ(近くのモータープール「三日月」の跡継ぎ)‥‥等々です。そして常連同士はお互い最初から最後まで

通称で呼び合い本名は知らずじまいだったのです。それは飲み屋の常連という、一つの割り切った世界での

付き合いという点からくる“エチケット”あるいは“けじめ”だったのでしょう。ハチを離れて個人的な知

人関係にまでなることはほとんどなかったのです(私の場合、1人だけ本名で今でも年賀状のやり取りをして

いますが)。

 そして私は「モーさん」(牛のこと)ということになりました。大阪では牛のよだれは商売の上で縁起がよ

く、私が証券会社員だからということでした。何となくのどかな感じで私も気に入っていました。やがて常連

の誰彼にハチママが「こちら新顔のモーさん、株屋さんやて」と紹介してくれるのです。すると中には「へー、

それなら何か儲かる話聞かせて」と言う者もいて、するとすぐにハチママが「あんたな、そんなこと聞いたら

モーさんに失礼やろ。そーゆう話は私だけが聞くんや!」と仰ってくれたのです。

 常連には女性客はほとんどおらず、見かけるのは常連の誰かが彼女を連れてきた時ぐらいです。理由はいく

つか考えられます。まず「ハチ」の場所が大阪梅田の東の歓楽街にあり、客引きの兄さんが道に出ていたり、

怪しげなホテル、安キャバレーなどが立ち並ぶ一角(関テレの旧本社ビルもすぐ近くにありましたが)にあっ

たため女性には足が向け難いことがあったでしょう。それとジャズが“男の文化”という色彩の濃いもので、

最近でこそピアノ、サックス、フルートなどで女性演奏家が目立つようになりましたが、もともとボーカル

を除けば男の技芸ジャンルのものと言え、勢いこれを愛聴するのもほとんど男だったからです(クラッシッ

ク畑と大きく異なる点です)。これはジャズの本場アメリカがそうなのであり、この世界が麻薬や、暗黒街

とも繋がり易い性格を持っていたこととも関わるのでしょう。

 それでも一人でくる女性客がいなかったわけではありません。ジャズを聞く趣味に男・女の差は本質的に

はないからでしょう。しかし常連に加わるかという点になると大分意味合いが違ってきます。ハチママも古

い道徳観を持っていたのです。つまり「若い娘が酒場などにたむろするものではない」ということです。

女性客が常連になりかけると、常連の誰かをあてがおうとするのです。10時を回った頃ともなるとハチママ

はその女性客に「もうこんな遅いから帰りや、○○さんが駅まで見送っていくから」と、○○さんに事前の

打診もなく言い出すのです。そして送って帰ってきた○○さんに、「どうやった、あれ気に入ったか?え?

気が合わへんか‥」と聞くのです。‥‥私が通った間にそれでカップルが出来上がったという話はとうとう

聞きませんでした。私も○○さんの役目を2回ほどしたのですが。

 

<カウンター席  左からお兄ちゃん、ハチママ、ヤノちゃん>

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<左から  シバラク、オーちゃん、ホリちゃん>

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<左から  ハチママ、お兄ちゃん、私、ヤノちゃん>

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<ホールの方での集合写真  SF作家の顔も>

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2013年8月27日 (火)

「ハチ」‥2

 「カウンターへ座らしまへんか」と声をかけられたものの私は最初は「いや、こっちでいいです」と断りま

した。「食い物の恨み」とは言いますが、やはり露骨な“格差”を最初に付けられた記憶が残っていて、自分

が常連のような側に、つまり“ファミリー”的なものの中に入ることへの抵抗感があったからです。それと私

は一人でゆったりとジャズを聞きながらほろ酔い気分に浸れればそれだけで十分満足だったからです(店内は

すばらしい音響空間だったのです)。ところがその次に「ハチ」に行った時に、今度は最初からカウンターに

案内され、さすがにそれは断りようがなくカウンター席に座ったのです。56人が並んで座れるくらいのカウ

ンターで、その時気が付きましたがカウンターの背中側にも小さなテーブル席が二つあったのです。夜7時台

の早い時間では常連もまだ少なく、一人が座っている程度でした。私はカウンターの右端の入口に近い席で、

目の前にアンプやプレーヤーが見えてマスター(“お兄ちゃん”と呼ばれていた)がLPレコードをかけ替え

るのを眺めながら飲んでいました。時々ママさん(ハチママと呼ばれた店のオーナー)がカウンターの横

に来て、私がどういう種類の会社のサラリーマンかなどさり気なく聞いたりするのでした。私はそんなこと

よりも今聞いているジャズが誰の演奏の何という曲なのか、いわばジャズ音楽の“taste”(味わい)

の話をしたかったので、「このテナーサックスの音色はいいね」とか「このピアノのタッチは独特じゃない

ですか」とか話しかけてもハチママやお兄ちゃんは「‥‥‥」とほとんど無反応です。返事のない話くら

い虚ろなものはなく、やがて私は白けた気分で黙る以外ありませんでした。要するに私はこの店の“しきた

り”を知らず、カウンター側に座る者の“振る舞い方”も何も知らない“新入り・ど素人”だったというわ

けです。少しジャズをカジッたくらいで、知った風な口を利くには10年早い、ということだったのです。そ

うと直接言われはしませんでしたが、「‥‥‥」が文字通り“言わず語らず”教えていたのです。もちろん

後々には“taste”の話もするようになっていくのですが、それは「ハチ」の雰囲気に馴染み、肩の力も何も

入らない中で“飲みながらの雑談”として、ほとんど意識もされずに交わされていくものだったのです。

 それともう一つ、黙っていても食べ物、ツマミが次々と出てくるのです。私がすればいいのは自分のボト

ルのウィスキーで、グラスに氷や水を注いで自分の水割りを作ることだけだったのです。‥‥そうこうする

うちにいつしか常連客が56人に増えてきて、カウンターや後ろの席で飲んでいます。大概の者が、市内

に職場があるサラリーマンや自営業者で、年齢は20代から30代が多くたまに古顔の常連で40代がいると言う

顔ぶれでした。そして常連は誰もがアダ名か通称で呼ばれていたのです。

<最近のCDジャケットはこんな具合です。楽天の広告ではありませんよ>

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2013年8月25日 (日)

「ハチ」‥1

 年寄りの話のステレオタイプとは、昔のことを語るか今の世相を愚痴るかということですが、ささやかなブ

ログの上でのことですから、いっそのこと典型的な昔話で若い頃に入り浸った飲み屋の話をしばらくやってみ

ようと思います。まさかこれを見て「私も常連だった」と名乗りでる人もいないと思いますのである意味で

“安心して”書こうと思うのです。別に嘘を言うつもりではありませんが。‥‥

 私のサラリーマン生活は大阪がスタートでした(1973年)。学生生活も大阪でしたからそのまま大阪に居続

けられたことになり、これは幸運なことでした。学生生活の後半から私もようやく大阪に馴染んできたので、

ここを離れる寂しさも感じていたからです。そして金融機関勤務で全国のどこの地域でも赴任の可能性があっ

たのですが、大阪勤務の辞令でホッとしたものです。とは言え仕事を覚えるのも大変で、半年ほどしてやっと

少しはゆとりが出てきた時に、学生時代にたまに入ったことのある「ジャズ喫茶」が、夜はスナックとなっ

ているのを知り、ここを、自分のボトルを置いて酔いながら物憂げにジャズを聴ける“何よりも贅沢な場所”

とするようになりました。その店の名は「インタープレイ8(ハチ)」と言い、今では代替わりしましたが店

は健在です。そして私は転勤で大阪を離れるまでこの店に足掛け8年通ったのです(店の名に合わせたわけ

ではありませんが)。

 さて飲み屋というところは多かれ少なかれ常連客がいて店主と馴染みの関係ができてくるもので、自然に、

常連客とそれ以外の客(一見)とは店の中で距離が置かれ、“格差”が付けられます。ここの「ハチ」も

例外ではなく、と言うよりもこの格差が極端で、常連はいわば“ファミリー”でその他は“ただの客”とし

て扱われます。小さなビルの地階にある「ハチ」の店の形は三味線型をしていました。入口から右側の広

く四角いスペースの方と左側の狭くひょろ長いカウンターのスペースの方とに分かれていて、常連だけがカ

ウンターに座れたのです。カウンターは常連だけというのは後から知ったことで、私は週に23日通い、い

つも右奥の席で角瓶の水割りを飲んでいました。たまに空いているカウンターに座ろうとすると「あ、そこ

はアカンのや。奥のテーブル席へ座ってんか!」と言われたのです。それで空腹なので何か食べ物を頼もう

と、カウンターの方を覗くと目の前でうまそうにチャーハンを食べている客と野菜サラダを食べている客が

いたので、「チャーハン頂戴」と言うと「それはできません」の返事で「じゃあ野菜サラダを」と言うと

「それもできません」と同じくカウンターの中のマスターの返事。内心ムカッとして「じゃあ何かあるもの

を!」と言い捨てて席に戻ると程なく小皿に盛られた「柿ピーナッツ(のようなもの)」が届いたもので

す。そんな具合で23ヶ月過ぎた頃、テーブル席で飲んでいると、ママさん(のような人)が「カウンター

へ座らしまへんか」と声をかけてきたのです。

<ジャズに馴染み始めた頃のLPジャケットです>

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2013年8月19日 (月)

「性格」‥59

「大和魂(やまとだましい)」という古い言葉があります。文献上ではこの言葉が最初に出てきたの

は『源氏物語』とされています。たまたま私は(この歳になって)今春からこの本を読み始めたので

すが、そこで言われる「大和魂」が現代の通念上の意味とはまったく異なったものであることに少し

驚きました。‥‥源氏は自分の長男である夕霧(ゆうぎり)が12歳の元服となるに当たって何よりも

まず学問を身に付けさせようとします。当時の男子の学問と言えば「漢学」(=四書五経を主とする

儒学等)のことです。そして漢学で得た基本的諸原理を、我国の実情に合うよう臨機に応用させる

「才(ざえ)=知恵・才覚」のことを「大和魂」と言ったのです。つまり源氏は夕霧を行く末は朝廷

政治を支える国家の重鎮になってもらいたく仕込もうとしたのが「大和魂」なのです。そして夕霧

は勉学にいそしみ幾つかの官吏登用試験も合格して期待通りの途を歩んで行くのです(これが出てく

るのはこの物語の前半の方の「少女(おとめ)」の巻の一箇所だけです)‥‥。

 この「大和魂」の意味が変わり始めるのは江戸後期の国学者達かららしいのですが、明治の近代

化が始まって国を挙げて「富国強兵」へ進むようになるとその流れのなかで「大和魂」もこれに平

仄を合わせる形で変質を遂げて行ったのです。結果的にはこれは「大和魂」にとって誠に不幸なこと

だったと言う他ありません。古語が近世になって似ても似つかぬ言葉に変わって行ってしまうのはよ

くある、“言葉の宿命”と言ってしまえば簡単ですが、まったく実に割り切れないものを感じざるを

得ないのです。現代において「大和魂」と言えば直ぐに思い起こすのは太平洋戦争における“神風特

攻隊”のことであり、その意味は「命を顧みず勇猛果敢に敵に突撃する心意気」のことになるのです

(私には昭和の「戦艦大和」の命名が「大和魂」の意味の変質をシンボリックに示したものだったと

思えます)。

 そして、今やこの「大和魂」という言葉が出てくるのは、特に過酷なスポーツ競技において選手を

鼓舞する“最強の言葉”として使われるのが専らとなっています。従って、最近問題となっている

校運動部の“体罰”にもイメージ的に通じる点があるとも言えるでしょう。スポーツの世界の典型的

な“根性用語(戦闘用語)”となっていると言っていいでしょう。‥‥いわば1000年の時を経

「大和魂」という言葉は、“最も高尚な知的用語”から“最も野蛮な戦闘用語”へ変質してしまった

と言っていいでしょう。

 私は今後近い将来において、国民が一丸となって本来の意味での「大和魂=現在の知識を国情に適

合させるべく臨機に働かせる才(ざえ)」を取り戻して「憲法改正(書き直し)」に取り組むことこ

そが今世紀前半で最大の(最終の?)“日本の起死回生策”となるのであろうと思います(今から

「漢学」を学べということではありません)。

2013年8月15日 (木)

「性格」‥58

 今年もまた86日の広島、9日の長崎の原爆記念日が来て、そして15日の終戦記念日が来ました。今年で68

です。政府は毎年815日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めています。私は日本国憲法の「平

念」(あるいは「平和憲法」)に対する疑問を持つ者として、以下のことは何があろうと言わなければな

らないことと考えます。

 広島・長崎の平和記念日は何故“平和”記念日なのでしょうか。それは68年前にアメリカに原爆を落とされた

ことが最終的契機となって日本は敗戦・降伏した結果平和がもたらされたからで、これを誰も疑いはしないで

しょう。しかし原爆投下が平和なのではありません。原爆投下そのものは惨禍なのであり、それも日本の歴史

上最大の惨禍で、2発の原爆で瞬時に20万人の無辜の人命が失われた人類史上でも空前の悲惨な出来事と言えま

す。だから68年経った今でも実に悲しみが伝わってくるのです(不遜なことを言えば、この犠牲者が23人い

2030人であったなら歴史的な悲劇には到底ならなかったでしょう)。

 そして、このことと「平和憲法」とはどう繋がるのでしょうか。「平和憲法」はアメリカが日本のために作

ったものです。原爆を投下したのもアメリカです。これを一言で言えば、アメリカは日本に原爆を投下し降伏

させ「平和憲法」を制定したということです。つまりアメリカは自らの手で日本に悲劇をもたらし、その悲劇

(悲しみ)を足がかりに平和を希(こいねが)う「平和憲法」を制定したのです。 従って、日本(人)は

この悲しみの“軛(くびき)”から免れない限り「平和憲法」から免れないのでしょう。即ち「平和の呪縛」

から免れないということです。しかし、ここで多くの人が「平和の呪縛」のどこが悪いのか、それは「平和の

達成」であり究極的な“幸福”のことではないのか、と強い異議を唱えるに違いありません。

 私はここに人間の永遠のテーマがあると考えます。人間は“幸福”が何であるか既に極めたと言えるのでしょ

うか。幸福とは戦争しないことだという結論が出たと言えるのでしょうか。単に戦争をしない(争わない)こ

とが幸福であるならこんなに容易なことはなかろうと思います。世界中のすべての国家、すべての民族が戦争

をしないことに偽りなく同意すればそれは実現する話なので、例えば国連でそれを決議しすべての国の代表者

が署名することが最善の方法であるように思われます。しかし未だそれは実現しておらず、将来必ず実現する

という保証を誰も与えることはできない、誠に困難なことと言わざるを得ません。何故なら、戦争をする(争

う)ことを幸福と考える(逆に言えば戦争できないことを不幸と考える)人間がいないとは決して言えないか

らです。人類のこれまでの歴史を考えれば、人間には戦争をする(争う)本性があると考える方が自然だから

です。

 冷静に考えれば「平和理念」とは道徳律に他なりません。道徳とは『人々が、善悪をわきまえて正しい行為を

なすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行

為へと促す内面的原理として働く(大辞泉)』ものです。そして憲法とは外面的・物理的強制を伴う法律その

ものであって、決して道徳律ではありません。従って、「平和理念」という道徳律を憲法に盛ることは憲法の

「法律性」にどうしてもそぐわないのです。

 ここで日本の古い例を辿れば、聖徳太子が604年に制定したとされる「十七条の憲法」は我国最初の成文法で、

和の精神と君臣の道徳を説いたものですが、社会を統べる現実的法律とはなりませんでした。そして実際的な

憲法の制定は701年の部親王・藤原不比等らによる「大宝律令」まで待たねばならなかったのです。この「大

宝律令」により古代の我国における天皇中心の中央集権国家の体制が固まったと言われています(大宝律令に

おいて初めて「日本」国号も定められたのです)。これは遣隋使の派遣以来約100年をかけて学んだ中国の律

令を日本の国情に合うように改変・編纂したもので、現代の刑法・民法・行政法を合わせたようなものと言わ

れています。そしてわざわざこの例を引きましたのは、現憲法の骨格である「平和理念」は「十七条の憲法」

の和の精神と同じであり、現実に社会を統べる規範とはならない、これを「大宝律令」と同じく現実的な規範

に改めなければならないということを言いたいがためです。「憲法改正(書き直し)」とはこの意味合いに

おいて為されるべきこと(即ち、今の日本の国情に合うように改変すること)と言いたいのです。

<散歩公園の池も暮れました>

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2013年8月 5日 (月)

「性格」‥57

 今から4年半前の私がリタイアする前年のこと、同期社員の実父が亡くなり当時本社周辺にいた気心知れた

仲間(飲み仲間)で通夜を見舞ってやろうということになりました。同期とは言えこの同僚社員は年齢が私

より2歳上で、前年にリタイアし嘱託となっていました。そのことと、葬儀場が東北に近い東京からJR・私

2時間余りの遠さもあっての遠慮からか、当人からは私的な参列、香典、供花等の固辞の連絡が午前中に私

達には入っていました。しかし日頃親しくしている仲間(当人は長男で喪主)ということで私を含む有志4

人で通夜だけでも馳せ参じようということにしたのです。3月初めの肌寒い日で現地では本格的な雪模様の天

気でした。私達は香典も用意せずに式場に赴いたのですが、行きの車中でやはり香典を持参すべきではない

かと色々相談をした時に、唯一同じ職場だった私が「やはり本人が強く固辞したのだからその意を汲もう」

と結論したのでした。最寄り駅から式場までの道すがらコンビニがあり傘を買うため立ち寄った時も1人が

「やはり香典を‥‥」と呟くので、私は「見ろ、こんな大雪のなか参列に来るだけでも☓万円の価値じゃな

いか」と駄目を押したのです。

 そして式場では通夜の読経は始まっていたものの、受付で記帳して椅子席に座ったのでした。その時、受

付係の婦人が「お香典は頂いてないですよね?」と私達4人のところへ確認に来たのです。そこで「???」

と怪訝な視線が3人から私に向けられたのは言うまでもありません。私はそれでも敢えて何でもない顔をして

いました。式の終了後は簡単にしつらえたテーブル席で粗飯と酒が振る舞われたので、私達は“遠慮なく”

席の一角で食べ物を頂いているところへ、喪主の同僚社員が来て「遠路をわざわざすまなかったな」と礼を

言うので、私は「おい、本当に香典なしで来たけど良かったのか?」と聞いてみると、彼は意表を突かれた

顔で「え?‥まあそれでもいいよ」と言ったのです。私は呆れて苦笑するしかなく、他の3人は「それみ

ろ!」と言う顔です。それでもとにかく体中が冷え切っていたので、酒のお代わりまで頼むと、段々と図

図しくなり私達のテーブルが一番賑やかになったのです。そして離れた席の親類の叔父さん・叔母さんら

しき人がこちらをチラチラ見ながら喪主に何かを話している様子が見えました。その時はそう気にもせず

私達は体が暖まり機嫌も良くなって退席し、また遠路帰宅の途についたのでした。

 後日、その喪主をやった同僚から「あの時は親戚の者から、あそこで飲んで騒いでいるあの人達はお前

の会社の知合いだって?香典もなかったそうだけど、という話だったんだわ。フハハハハ!」と教えても

らったのです。そしてその後の飲み会では常にこの話題が私をやり込める格好の酒の肴となってしまった

のです。

 酒にまつわるエピソードは以上ですが、また思い出しましたらご紹介します。

<散歩道の竹藪です>

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2013年8月 3日 (土)

「性格」‥56

 帰国子女や英会話スクールの経験のある人はまず不都合はないことでしょうが、私のような凡人は学校時

代に何年英語を学んだか忘れましたが、とうとう英語を話せない人生が確定的です。高校時代には「豆単」

食べたかというほど英単語を暗記して、ヘタなアメリカ人より何倍も語彙が上回る位だったにもかかわら

会話ができないのはやはり根本的な勉強方法にミスがあったのでしょう。

 そんな状態でサラリーマン時代にあった海外出張での経験談を一つ。私は証券会社に勤務して一時期には

上場会社担当部署にいたのですが、その担当会社がヨーロッパ(ロンドンやチューリッヒ)でファイナンス

(社債の発行等による資金調達)を盛んに行なった時があり、私ら担当者も会社の役員(社長、財務担当役

員等)にアテンドして現地に出向いたものです。まず基本的な準備は日本で行なってから日程が詰まった所

で最後の調印セレモニーのために現地に行くもので、半分以上旅行気分です。調印日を真中にして2日前位に

現地入りし、調印後の2日後位には帰国する短期間の旅程が普通でした。さて調印式はホストの現地金融機関

の貴賓室で行われ、調達会社、証券会社、現地金融機関の各役員・スタッフの合計1520人程度が出席して

ファイナンスに関する契約調印が交わされると、直ちにテーブル席で会食(ランチョン)となります。この

会食の席が訪問側(日本人)と現地側(イギリス人やスイス人)とが互いに入り混じった形にセットされて

います。つまり私も末席ながら席に着きますが両サイドは“外人”です。さていよいよ会食が始まるとあち

こちでフランクな会話が始まります。要領を事前に聞いていた私はそこで迷わず立ち上がるとカメラを持っ

てあちらこちらをパチリ、パチリと撮り始めるのです。特に日本の会社の役員の方々にとっては晴れがま

しい場なので記念写真は嬉しいものです。私は時々は席に戻るのですがその時は一心に食事をぱくつき、両

サイドからは取り付く島もない様子でいます。うっかり声を掛けられても食べ物を頬張ったまま振り向けば、

それ以上話しかけられることはありません(エチケットです)。これが悲しいかな外人との会話を回避する

最善策なのです。(英語で)話しかけられてもまず何を言っているか分からず目を白黒させる羽目になるか

らです。これは実は日本にいる時に皆からそういう風にしろと教え込まれていたのです。

 一方、それでもシャンパンやワインも飲みたいので席でグラスを傾けていれば必ず左右どちらかから話し

かけられます。‥‥しかし、ここでうまくホロ酔いしてしまうと、何と驚くなかれ、英語がちゃんと聞き

取れるのです!彼らも日本人にそう難しいことは聞かないのです。日本の経済の調子はどうか、成長率はど

の位か、市場の見通しは‥‥という常日頃から聞き慣れていることを易しく英語で聞くだけなのです。酔っ

てリラックスした耳で聞けば何てこともない話なのです。あとはあの「豆単」英語で話を返せばいいのです。

発音や文法が少々おかしくても彼らはこちらの話を理解してくれるのです。

‥‥“な~んだそうだったのか”と言うようなものですね。しかし、翌日しらふで現地の人に会うと、また

何を言っているか分からないのです。

‥‥要するにこれは生の英会話の苦手を克服するためのヒントとしての“酒の効用”という話で、英語の

勉強には酒を飲むべしという話ではありませんので、念のため。

2013年8月 1日 (木)

「性格」‥55

 今から145年前のことですが、叔母方の従妹の結婚式披露宴であった話です。私達のテーブルは親戚関係

者が6人座っていました。私達夫婦と叔父夫婦、叔母夫婦でしたが、一番年長の叔父が“酒グセ”に問題のあ

る人だったのです。いわゆる“絡み酒”というもので、酔うと変に理屈っぽくなり手頃な相手を見つけると

話を吹っ掛けて“絡んでくる”というあれです。宴も半ば過ぎた頃、サービス精神旺盛な新郎が各テーブル

を酒を注いで回り始めました。私達のところへ来た時、その叔父がその新郎に「おい、お前は○○子(新婦。

叔父にとっては姪)をどうするつもりだ」と酒を注がれながら聞いたのです。新郎は「はい、一緒に良い家

庭を作り幸せにします!」と優等生の答えをしたのですが、続けて「どういう風に良い家庭を作るんだ?」

と聞かれ、やはり優等生的に「いい仕事をして家族を助けたいと思います!」と答えました。‥‥普通なら

ここで終わりで、新郎は褒めそやされながら次のテーブルへ移って行くところですが、叔父はしつこく「お

前が仕事をすればなぜ家族を助けられるんだ?」と言うのです。新郎にとってこれは想定外で、ややしどろ

もどろになりながらも「‥はい、とにかく一生懸命働いて家族を助けます」と答えたのですが、叔父はまだ

許してくれません。「何?お前は一体何をやっているんだ?」と言いがかりのように畳みかけるのです。新

郎は有名電機会社のグループ企業のサラリ-マンで特に問題はなさそうですが、細かな仕事内容を話し様も

ないのか「安定した会社なので大丈夫です!」という風に答えると、叔父は何が気に入らないのか「お前は

会社にぶら下がっているのか、それでどうして家族を助けられると言えるのだ!」ともう怒気を含んだ言い

方なのです。ここでようやく事態の拙さを悟った別の叔父(叔母の主人)が「まあまあこういうところで‥

義兄さんもういいじゃないですか、しっかりした婿さんですよ!」と取りなしに入ったのです。ひょっとす

ると叔父は私の知らない、この結婚にまつわる裏話のようなことを耳に入れていたのかも知れません。しか

しさすがに叔父もこれ以上絡むことはせず何とか治まって、大汗をかいた新郎は隣のテーブルに移ることが

できたのです。‥‥どちらかと言えば私にとって気が置けない叔父の初めて目にする姿だったので、少なか

らずショックでした。

 この人は私の母方の叔父で、50歳近くになるまで飲まなかったと聞きます。いや祖母が酒を厳禁していた

しいのです。と言うのはその夫の祖父が酒グセが悪くて祖母が大変苦労したらしく、それで祖母は生前

供(叔父)には飲酒を許さなかったらしいのです。この叔父もこの春他界し(享年92歳)、私は通夜に参列

したのでした。

‥‥それで最近思うのは、私も酔うとどちらかと言えば“絡み酒”なのはこっちの血筋からかということで

す。私の父は典型的な“機嫌酒”で普段は静かで無口なのが酔うと一転陽気になり、芸まで演りだす人間

だったからです。ついでに言いますと私は5人兄弟(うち姉1人)で、長兄と三兄が機嫌酒、次兄と私が絡み

酒と概ね分かれるようです。

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