« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

2014年7月25日 (金)

「紫の上」‥‥若紫(3)

源氏は、ある夜僧都の坊(部屋)に招かれると、僧都から少女の生い立ちを聞くこととなり、世話をする祖母

(尼君)が自分の老い先短さを悟っていて、孫娘(少女)の将来の身の上を心配しているという事情も聞くと、

この少女をぜひ自分の元に引き取りたいという強い思いの虜になってしまったのです。そして何とか尼君に

直談判して自分の願いを伝えるのですが、尼君の方は源氏の申し入れに大変驚き只々それを謝絶するばかりな

のです。‥‥それは当り前です。あの名高い光源氏の君が「娘を下さい」と言えばそれは「自分の寵愛する女

性として側に置きたい」ということを当然意味するからです。さらに返事に手間取るのも失礼なことになるの

で「大変ありがたく、喜んでお受けすべきお話ではありますが、何か話の聞き違いをされておられるようです。

私共の娘はまだいっこうにあどけない年頃で、とてもお相手などできるはずもなく、それを大目に見ていただ

けるものでもありませんので、とてもお承りすることはできかねます」と、尼君は取りつく島もない様子で対

応するのです。それでも源氏は「すべて(僧都から)詳しく聞き知った上でお願いしていることなので、私の

真意を汲んでいただきたい」と申し上げるのですが、尼君からはいっこうに気を許すような返事はありません。

その後、僧都からも口添えをしてもらったのですが結局受け入れられなかったのです。一方、幸いにも瘧病

(わらわやみ)はだいぶ癒えてきたこともあり、源氏は一旦京へ戻ることにしました。

往きと異なり帰りは、頭中将を筆頭に左大臣家の大勢の家臣が迎えに来たので閑静な北山の寺が仰々しくなり、

僧都や尼君は今更ながら源氏の権勢ぶりに目を見張り、女房達は源氏の君をひと目でも見ようと簾から身を乗

り出さんばかりなのでした。そんな中、若君(少女)は幼心に、何とすてきなお方かとご覧になって「父宮

(兵部卿宮)のお姿よりもご立派でいらっしゃるのね」などとおっしゃるので、お付の女房が「それなら、

あのお方のお子におなりあそばせな」と言うと、頷いて、そうなればどんなによいことかと思っていらっしゃ

るのです。その後は雛遊びの時には、これは源氏の君という風にこしらえて、きれいな着物を着せたりして大

切にしていらっしゃるのでした。

源氏はその足で宮中に参り、ここ数日来の自らの不在の経緯を父帝に奏上すると、父帝からは面やつれした源

氏を心底いたわる言葉を賜りながら左大臣に誘われて退出したのです。左大臣邸では婿殿の久し振りの帰還に

壮麗な間を用意して下にも置かぬ扱いなのですが、いちばん肝心な姫君(葵の上)はといえば、打ち解けた心

配の様子を見せるでもなく、気詰まりな風に流し目をくれるだけで、源氏にどのような労いの言葉をかけたも

のか考えあぐねている具合なのです。

‥‥今風に「性格の不一致」と言えば話は簡単でしょうが、紫式部は理由を明確にしないまま(高貴な地位・

家柄の政略的婚姻が原因とは明言しない)、葵の上の死の間際まで氷のような夫婦関係を描くのです。

‥‥私が思うに、葵の上はこの物語の設定上、源氏の生涯の伴侶となる紫の上の“引き立て役”として不

幸な役回りを負わされた(その意味で“物の哀れ”を体現した)登場人物だったのだろうということです。

これが良いとか悪いとかといった次元を離れたものだということです。

 

2ヶ月ぶりに鎌倉紀行のカルチャースクールに参加しました。今回は鎌倉のほぼ真東に位置する光触寺

(こうそくじ)を主とする十二所神社界隈を巡りました。この史跡の歴史的意義は一般にはあまり知られ

ていないと思われるのですが、美術史家の先生の説明を聞いていると、鎌倉は世界遺産認定を焦るのでは

なく、その前にこのような史跡の再評価に努めるのが何よりも先決事項であることを痛感しました。一般

的通念である“鎌倉は武家政治の発祥の地で、八幡宮と大仏があります”で簡単に説明が済まされるよう

な処では決してないのです!!!! ‥‥なぜ頼朝が京都・奈良から遠く隔たったこの地に日本全土を統治する幕

府を構えたのか‥‥その論理的・歴史的な説明が今だになされてはいないことほど不思議なことはないの

です。鎌倉幕府がなければ江戸幕府も生まれなかったはずなのです。‥思い切って言えば、日本の歴史学

の底の浅さが露見していると言わざるを得ないのです>

PhotoPhoto_2(光触寺)

3(開基 一遍上人)

5(頬焼ほほやき阿弥陀の縁起を語る僧正)7(頬焼阿弥陀)

13滑川源流近く

14滑川源流の滝

16夏の鎌倉海岸

17

















2014年7月20日 (日)

「紫の上」‥‥若紫(2)

この箇所に限らず、源氏物語には男が女の姿を覗き見るという場面が描かれることが多々あります。それは、垣

根越しであったり、簾(すだれ)越しであったり、屏風の隙間からであったりと色々なのですが、今の時代の基

準で言えば、覗き魔、痴漢、変質者、ストーカーの類になってしまうでしょう。しかし、これは一言で言えば、

この1,000年間という時代の隔たりに基づく、社会環境、生活習慣の差異によることなのです。男と女が会合す

る(交際をする)機会というものは時代によって様々な形があったことは間違いないとすれば、今の基準で昔の

慣習を測ることは誤った解釈につながるでしょう。現代ではごく当り前の、郵便葉書、電話、PC・携帯メール

といった簡便な意思伝達手段はなかった時代なわけですから、それはどうしても直接的な方法にならざるを得な

かったでしょう。ただ、卑俗から高貴までの身分上の絶対的格差が存在していた世の中で、自分単独の行動でな

ければ、例えば高貴な身分の者がそのような会合の機会を持つためには、間を取り持つ役目をする身内がいたり、

供人がいたり、お付の女房がいたりするのが普通であると思った方がいいでしょうし、世間全体においては、

それこそ自由な形から格式張った形まで多種雑多なやり方が行われていただろうと想像することはそう難しいこ

とではないでしょう。そして“覗き見”と言っても高貴な人の場合はそれをいざなう者が必ずいた点は忘れては

ならないことなのです。この物語に登場する多くの“好き者”達の振舞いの評価はすべてこのことを念頭に置か

なければなりません。つまり、犯罪者心理のような“後ろめたさ”とは無縁だったのです。

 親王である源氏の覗き見もほとんどがこのパターンで、いわゆる“出歯亀”をイメージしたらまったくのピント

外れです。そして北山の僧坊であどけない少女を覗き見た今回のケースもまさにこれだったのです。その少女は

自分が育てていた雀の子を遊び友達が逃してしまったことを悔やんで、母親のような尼君に駄々をこねたところ

だったのです。それを見た源氏の印象が次の様に語られています。

《つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざしいみじうう

つくし。ねびゆかむさまゆかしき人かな、と目とまりたまふ。さるは、限りなう心を尽くしきこゆる人にい

とよう似たてまつれるがまもらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる》

(顔つきが実にいじらしく、眉のあたりがほんのりと美しく感じられ、あどけなくかき上げている額の様子、

髪の生えざまが、たいそう可愛らしい。これからどんなに美しい大人になっていくのか、その様子を見届け

たいような人よ、と君はじっと見入っておられるのです。それは実は、自分が限りなく深い思いをお寄せに

っている方に本当によく似ていらっしゃるので、どうしても目をひきつけられてしまうのだ、と思ってい

うちに涙がこぼてしまったのです)

 実は、この少女は幼くして母親に先立たれ、今は祖母の尼君に育てられていて、尼君の兄の北山の僧都

(そうず:僧正に次ぐ地位)のもとに身を寄せていたのです。その少女の父親というのが藤壺の宮の兄で

ある兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)だったわけで、少女は藤壺の宮の姪に当たるので、二人が瓜二つ

なのはまったく頷ける話だったのです。

<植物園には珍しい花が少なくありません。カシワバアジサイ、ウバユリ、ハマボウ等は初めて見るも

のです。ムクゲ、ヤマユリはご存知の花ですが。>

12
3

1_22_2
3_24

1_32_3
3_3

PhotoPhoto_2

















2014年7月16日 (水)

「紫の上」‥‥若紫(1)

源氏物語は54帖(じょう:~の巻、に相当)で構成されています。「桐壷きりつぼ」、「箒木ははきぎ」、「空蝉うつせみ」と始まり‥‥「蜻蛉かげろふ」、「手習てならひ」、「夢浮橋ゆめのうきはし」で終わる、全部で54のストーリーが連なって書かれているのです。しかしこれらの各巻の題名は紫式部が付けたわけではなく、後世にこの物語が読まれ語り継がれていく過程で研究者達によって物語の理解を容易にするために内容にそって付けたものだという考え方が有力です。巻名を紫式部自身が付けたかどうかはともかく、巻の区切りを示すストーリーの転換は明らかに読み取ることができるので、源氏物語という長い小説を読む上で巻名の活用は現在では完全に定着しているのが事実です。

さて、その上でどの巻が最も重要か、あるいは最も面白いかについては読者の好みによって様々な意見があり、確たることは決まってないと言っていいようです。私は前にも述べましたように、「箒木」の巻における<雨夜の品定め>の章が、源氏物語という長編全体を通した「モチーフ」を示したものである点で非常に重要な気がしますが、近代の小説論を既にこの時代に先取りしていた「蛍」の巻もこれに劣らず重要なところと言ってもいいと思います。しかし、これとは別に「若紫」の巻も、源氏が紫の上という生涯の伴侶を見出し、その後の源氏が生きていく上での信条を決めることとなった経緯を語っている点で、これらに劣らず重要な巻であるように思います。そこで以下「若紫」の巻についてお話してみようと思います。

それは源氏が18歳の春のことで、この頃源氏は瘧病(わらわやみ、おこりとも言われ周期的に発熱するマラリアのような病気)をわずらっていて、あれこれ加持祈祷など手を尽くしても中々効き目がなかったとき北山に優れた修行僧がいることを聞きます。そこでお供45人だけで内密にある朝早くに北山の寺に出かけて行ったのです。そしてその地に療養のために数日間逗留していたのですが、ふとした折に僧坊を小柴垣越しに覗いてみると、気品のある尼君とこれに付き従う一人の可憐な10歳位の少女に目を止めたのです。まだあどけないその少女が、自分が恋い慕う藤壺の宮に瓜二つだったからです。

 

<植物園隣地の児童公園の園路脇の草地には清々しげにヤマユリが咲いていました。アジサイは既に咲き終わりの状態で色もくすんでいます。花畑のヒマワリとコスモスがちらほら咲き始め、花壇にも夏らしい花が見られます>

1_2Dsc_1519_2

34

56

78











« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »