« 2014年12月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年1月

2015年1月30日 (金)

「六条御息所」‥‥(10)

あまりにも急な葵の上の姫君の逝去に、左大臣家の人々は度を失うほど慌てうろたえるばかりで、

源氏はと言えば、深い悲しみに加え不気味なことが重なって、弔問に訪れる人と面談するのも厭わ

しい気分におちいってしまったのでした。‥‥そして、あれやこれやの(亡くなった人を蘇生させるた

めの)の大がかりな秘法を尽くしては見たものの、日は過ぎてゆくばかりで、やがて姫の亡骸は火葬

場がある鳥辺野(とりべの)に移され、盛大な葬送の儀式が執り行われたのです。

 こうして六条御息所の怨念(生霊)によって、源氏の正室葵の上はとり殺されてしまったのです。

しかもその証拠ともいえる忌まわしい出来事を、 源氏は直接目撃してしまったのですから、源氏

が六条御息所に対して、恨み骨髄に徹するか、あるいは底知れぬ恐怖感を抱くよう になるかして、

この両人の間がまったく没交渉となってしまったのかといえば、決してそんなことはなかったのです。

ある晩秋の日の、一段と悲哀感の深まってきた頃に、源氏のもとに(弔意をこめた)青い鈍色(にび

いろ)の文が、咲き始めた庭の菊の枝にさり気なく付けられていたのです。源氏は、こんなしゃれた

ことをするのは、ことによったらあの方ではないかと見てみると、やはり御息所の筆跡で、「ご無沙

汰申してきた私の気持ちは、お察し下さいましたでしょうか」と、歌が添えられていて‥‥

《人の世をあはれと聞くも露けきに おくるる袖を思ひこそやれ》

(人生の無常‥‥女君の亡くなられたことを悲しくお聞きいたしますにつけても涙を誘われますが、

ましてや後に残られたあなた様 のお袖がどんなに濡れることかと、お察し申しております)

‥‥「思いを胸に留めておくこともできかねまして」とあります。 源氏は、常にもまして見事な文面で

あることよと思う反面、何と白々しいお悔やみであろうかと、厭わしい感じもしてくるのでした。 しか

しそれでも、この高貴な女人に対して、なしのつぶてで返事もしないでいる気にはとてもなれず、あ

れこれためらい悩みつつも、 やはり鈍色がかった紙で、「止むを得ないことで無沙汰が続いて、お

詫び申し上げようもありませんが、この間の事情のこともお分かりいただいているかと存じ‥‥」

とお返しの文をしたため、

《とまる身も消えしも同じ露の世に 心おくらむほどぞはかなき》

(後に残る者も、消えてしまった者も、同じようにはかない露の命の世に生きているだけなのに、そ

の露の世にいつまでも執着しているのは、つまらないことではないですか)‥‥「お恨みされる心は

分からないわけではありませんが、どうかお忘れになって下さ い」と詠んだのです。

 どこか奥歯に物の挟まったような、あるいは、恋着がありながらも白けた気分も漂うような文のや

り取りに見えますが、果たしてどうなのでしょうか。これはやはり、のっぴきならないところまでたどり

着いてしまった間柄であることを、お互いに知ってしまった者同士だけが交わすことのできる、和歌

の贈答とでも言えばいいのでしょう。‥‥既に、最初のこの二人の出会いの時から6年が過 ぎ、

源氏は23歳に、六条御息所は30歳になろうとしていたのです。ただし、御息所は自分の娘が伊勢の

斎宮(伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王。天皇の即位ごとに選ばれる)となることが決まってい

て、やがて都を離れ伊勢に下っていく時には、自分も母親として付き添っていこうと心に決めていた

のです。もちろんこれは、ますます縁遠くなり悩ましい怨念が嵩じるばかりとなっていた、源氏の君と

の仲をすっかり精算しようとの思いからなのです(前にも言いましたが、あの加茂神社の大祭(葵祭)

の見物も、御息所にとっては源氏の見納めの積もりだったのです)。

‥‥結局翌年の秋、六条御息所は娘とともに伊勢に下向し、源氏との関係は途絶えることになりま

す(その前に、最後の逢瀬も語られるのですが、ここでは省略します)。

 そして、このシリーズのはじめに述べました、六条御息所という不思議な女性の役割についてもう

一度考えますと、それは、華やかな源氏の恋愛遍歴を描く一方で、まだ少年であった源氏が御息所

という女性によって大人の男となったという隠された裏面を、 紫式部は語ろうとしたのだろうという

ことです。それは、別の言い方をすれば、あの<雨夜の品定め>にも出ていないタイプの女性とし

て、いわば“規格外の重要な女性”として六条御息所を登場させることにより、この物語全体に濃い

陰影感をもたらす効果をねらったのではないかということです。

(六条御息所の話はここで終ることとします)

<先の日曜日に鎌倉を散歩した時のスナップで、明王院、鎌倉宮、源氏池です>

Dsc_2174Dsc_2178

Dsc_2264Dsc_2265

Dsc_2180Dsc_2183

2015年1月17日 (土)

「表現の自由」

世の中には、当たり前のことや、良識に基づいて暗黙に了解されているルールが多々あり、これなくして社会

は成り立ちません。憲法や法律という明文化されたルールももちろんあります。しかし、その社会の人々の間に、

憲法や法律を守ろうという暗黙の了解(ルール)がなければ憲法も法律も意味をなしません。ですからこの暗黙

のルールは、憲法や法律をも包摂する人間社会の根本的なルールと言えます。これを「常識」(common sense)

と言っているのでしょう。ちなみに「常識」を大辞泉で引くと、「一般の社会人が共通に持つ、また持つべき普通

の知識・意見や判断力」とあります。

 この常識が、常に辞書の説明のように通用しているのであれば、社会はいつも平穏無事な状態が保たれるでし

ょう。しかし、皮肉な言い方になりますが、一般の社会人の誰もが、まったく同じ内容・質の常識など持っていな

い、ということが常識なのです。人それぞれが備えている常識には、多かれ少なかれ微妙な違いがあると言って

いいでしょう。なぜなら、人それぞれには性格の違い、すなわち個性があり、常識の内容にもそれぞれの個性が

反映されるからです。しかし、そのような人それぞれで異なる個性を踏まえた上で、それでも皆に共通に理解され

る(べき)ものが常識だと言えるかも知れません。そうだとしても、人それぞれの違いが消えるわけではありませ

んから、人それぞれの常識の間の齟齬が頻繁に生じることになります。 そして、それが原因となって、様々な争

い・事件・事故が頻発することになるのは当然です。これをそのまま放っておけば、社会は大混乱となり崩壊し

てしまうでしょう。結局、このままではケリがつかないことになりますから、これを解決するために人間の知恵が

生み出したものが、近代においては「裁判」という制度です。そして、そこで問題を裁く根拠となるのも、やはり

「常識」だと言っていいと思います。

 さて、回り道をしましたが「表現の自由」のことです。「表現の自由」とだけ言えば、もともとそれは普遍的なこ

とであることは、誰でも直ぐに理解できます。自分の意志で何かを表現することは、誰でも、いつでも、どこで

でもできます。極端な言い方をすれば、地面に掘った穴に向かって大声で何を言おうと自由です《これを第一

義的な「表現の自由」としましょう》。しかし、これが他人に向けられた時は、「表現の自由」は普遍的に成り立

つというわけには行きません。誰かに向けて悪口を言えば、言われた方は怒るのが普通です。悪口を言う

者が「表現の自由」を主張しても、言われた者が「怒りを表現する自由」もあるからです。個人間のことであ

れば、ケンカとなり、悪いのは悪口を言った者の方となり、これが「常識」です。これが民族間や国家間であれ

ば、このような常識破りから容易に戦争が起こります。国家間の場合は悪口と言うよりは、いわゆる悪事

(不当な取引をする、不法な侵略をする、不当な攻撃を仕掛ける、‥)を働く結果でしょう。このような事例は、

過去から現在に至るまでの世界の歴史を見れば枚挙に暇がありません《この、常識に制約されるものを、

第二義的な「表現の自由」としましょう》。

‥‥そこで今回のフランスの新聞社シャルリ・エブドの事件です。もとより、テロリスト側に弁護の余地など

まったくなく、断罪あるのみです。テロの犠牲になった方々にはお悔やみを申し上げるばかりです。しかし、

問題はイスラム教を愚弄した風刺画を掲載した事実を、この新聞社自身がどう考えていたのかです。もし

新聞社が、イスラム教に対する特殊な恨みがあっての風刺画掲載であれば、それはイスラム教に対する

攻撃でしょう。そうであれば風刺画掲載は、イスラム圏サイドから何らかの反発や報復を十分予想した上で

の行為だったと言えます。これはイスラム教に対する“宣戦布告(控えめに言っても挑発)”の性格の

ものですから、今回のようなテロの報復の可能性は、最初からあったことになります。あるいは、特殊な恨

みなどはないが、イスラム教に対する純然たる皮肉、冷やかしの意図であったとしたら、これは“面白半分”

という愉快犯の行為と同じものになります。しかしこれは、イスラム教徒が抱く不快感を慮れば、間違いなく

犯罪行為でしょう。この行為は、フランスがキリスト教国だからできた話で、イスラム教国であればそれだけ

で処罰されています。いずれにしても、「表現の自由」を拠り所にしたとしても、 シャルリ・エブドの今回の行

為は、“常識はずれ”の誹りを免れることはできないでしょう。それでも「表現の自由」を盾に自分の正当

性を言い張ると したら、それは“盗人猛々しい”という類のもので、恥知らずな言い分に自分で気が付い

てないということになるでしょう。要するに、シャルリ・エブド には第一義的な「表現の自由」だけがあり、第

二義的な「表現の自由」は念頭にないのです。これは簡単に言えば、「表現の自由」の取り違えだというこ

とです。 考えてみれば、「表現の自由」とは両刃の剣で、独裁政権による圧殺への抵抗の証として主張さ

れることもあれば、独善的なエゴイズムに基づいて主張されることもあるのです。どちらも被害者の立場

を取ることが多いので、一見すると見分けが難しいかも知れませんが、それを「常識」に基づいた判断の

方途に従って見ると案外と氷解するのではないかと思います。それはほとんどのケースで、第一義的な

「表現の自由」と、第二義的な「表現の自由」との取り違えなのです。そして、この取り違えが、意識的なも

のであれば本質的に悪質であり、無意識的なものであれば本質的に幼稚なのです。

 

<寒の入りの中で、寒さに強いのがロウバイとパンジーです>

Dsc_2231



Dsc_2254


Dsc_2255


Dsc_2258

Dsc_2241Dsc_2242


Dsc_2243Dsc_2246

2015年1月10日 (土)

「六条御息所」‥‥(9)

出産を控えた葵の上の姫君に取り憑いているのは、あの“車騒ぎ”の当事者の六条御息所の生霊らしい、と人々

が噂するようになるのに、そう時間はかかりませんでした。あの時の光景を目にした者は誰でも、御息所が受け

たひどい屈辱を察することが出来たため、葵の上が難産に苦しんでいるのは、御息所の恨みから来る“祟り”ら

しいとの連想が働くのは自然なことだったのでしょう。

 そしてさらに、そのことを裏付ける御息所自身の感懐へとつながっていくのです。『‥‥自分としては我が身

の運のつたなさを嘆くことより他に、他人の身の上を悪しかれと願う気持ちなど持ってはいないのに、物思い故

に身体を抜け出してさまよい出るという魂が、あるいはそうやってあのお方に取り憑いているのは本当かも知れ

ない。‥‥これまでの何年間か悩ましいことはあったにしても、心まで砕けてしまうということはなかった。と

ころが、こちらが無視された上に蔑みまで受けるという、あんなことがあってからは、心がすっかり虚ろにな

ってしまい、ついうとうととした夢の中でも、あの姫君と思える人の所へ自分が出向いて行き、姫君をなぶり、

狂ったように引き回したりするのを見ることが度重なってきている。これはやはり、自分の魂が抜け出したのだ

ろうか。‥‥今生きている身でありながら、人からそんな噂を立てられるのは、何と厭わしい我が身の因縁なの

だろう。もういっさい、あの薄情なお方に思いをかけようなどと思うまい‥』‥しかし、思うまいと思うことが、

実は思っていることなのです(と紫式部は書くのです)。

 そうこうするうちに、姫が急に産気づいて苦しみ出したので、大勢の修験者が懸命に御祈祷をすると、泣き苦し

みながら“御祈祷をゆるめてくだされ、大将に申し上げたいのです”と、やっと声を出す姫に源氏は寄り添い、

その手を取って見てみると、何と顔と声の感じは六条御息所その人に間違いないのです。あまりのことに源氏は

声も出ず、世の中にこんなことがあるのか、と驚き入ってまじまじと見つめるばかりだったのです。‥‥すると、

御息所の物の怪はこんな歌を詠むのです。

《なげきわび空に乱るるわが魂を 結びとどめよしたがひのつま》

(嘆きのあまりに身を抜け出して空にさまよっている私の魂を、下前の褄(つま)を結んでつなぎとめてください)

しかし源氏は、このことは自分しか分からないと思い、近くにいる女房どもに気付かれやしまいかと、内心はら

はらしてしまったのです(物の怪の正体が、恋人の御息所と知ると、愕然とした源氏は声の出しようもなかった

のです)。

 ややあって、苦しそうな声も少し静まったので、母宮が姫君に薬湯を与えようとし、人々に抱き起こされると間

なしに御子が生まれたのです。これで源氏をはじめ、左大臣家の人々すべてが安堵したのは言うまでもありません。

そして、懸命な加持祈祷を続けてきた叡山の座主、高僧達も満足し切った顔で、汗を拭いながら退出していった

のです。しかしながら、物の怪に苦しめられながら難産を終えた姫君の体力は、既に限界を超えて衰弱してしま

っていたのです。

‥六条御息所は目を覚ますと、自分の身に護摩に焚く芥子の香が染みこんでいることを怪訝に思い、御髪を洗っ

た上に着替えたりするものの、いっこうに変わらないので、ますます平静ではいられなくなるのです。そうこう

するうちに、危篤の噂だった葵の上の姫君が男の子を出産したことを伝え聞くと、よくもまあご無事で、と妬ま

しい思いになるのでした。

‥源氏は、葵の上が難産を終えて、いくらか気持ちも落ち着いてきたものの、あの時の世にも恐ろしい有り様を

思い出すとまた厭わしい気分になり、かと言って御息所に今すぐ逢いに行く気にはとてもなれないので、とりあ

えず手紙だけを書き送ったのです。そして、たとえようもなく愛らしい若君の顔を見届けると、すぐに葵の上の

姫君のもとにきて、まだ人心地もなく伏している姫君の様子を見守るのでした。姫君はひどく弱りやつれていな

がらも、御髪が一筋の乱れもなく、はらはらと枕元にかかる風情は、世に類のない美しさとまで見えるので、今

までこの人のどこに不足があると思っていたのだろうかと、我ながら考えあぐねる他なかったのです。それでも

「さあ、お薬を召し上がって、早くお癒りになって、いつものお部屋にお戻りなされ」と、優しく声をかける

と、まわりの女房達もしみじみうれしく思うのでした。そして、しばらく遠ざかっていた宮中へ出かけていく源

氏の君の姿を、姫君はこれまでと違って、じっと愛おしく目を注いで見送るのでした。

 源氏だけでなく、姫君の男子誕生に沸き立つ左大臣家の主だった人々も、ちょうど秋の官位昇進の評定の日なの

で宮中へ出向いて行ったのです。そして邸内が人少なになって少しひっそりとした夜半になって、葵の上は急な

咳込みに襲われ、激しく苦しんだまま息絶えてしまったのです。それは、宮中にいた源氏や左大臣家の人々に知

らせるいとますらなかったのです。

« 2014年12月 | トップページ | 2015年3月 »