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2015年1月17日 (土)

「表現の自由」

世の中には、当たり前のことや、良識に基づいて暗黙に了解されているルールが多々あり、これなくして社会

は成り立ちません。憲法や法律という明文化されたルールももちろんあります。しかし、その社会の人々の間に、

憲法や法律を守ろうという暗黙の了解(ルール)がなければ憲法も法律も意味をなしません。ですからこの暗黙

のルールは、憲法や法律をも包摂する人間社会の根本的なルールと言えます。これを「常識」(common sense)

と言っているのでしょう。ちなみに「常識」を大辞泉で引くと、「一般の社会人が共通に持つ、また持つべき普通

の知識・意見や判断力」とあります。

 この常識が、常に辞書の説明のように通用しているのであれば、社会はいつも平穏無事な状態が保たれるでし

ょう。しかし、皮肉な言い方になりますが、一般の社会人の誰もが、まったく同じ内容・質の常識など持っていな

い、ということが常識なのです。人それぞれが備えている常識には、多かれ少なかれ微妙な違いがあると言って

いいでしょう。なぜなら、人それぞれには性格の違い、すなわち個性があり、常識の内容にもそれぞれの個性が

反映されるからです。しかし、そのような人それぞれで異なる個性を踏まえた上で、それでも皆に共通に理解され

る(べき)ものが常識だと言えるかも知れません。そうだとしても、人それぞれの違いが消えるわけではありませ

んから、人それぞれの常識の間の齟齬が頻繁に生じることになります。 そして、それが原因となって、様々な争

い・事件・事故が頻発することになるのは当然です。これをそのまま放っておけば、社会は大混乱となり崩壊し

てしまうでしょう。結局、このままではケリがつかないことになりますから、これを解決するために人間の知恵が

生み出したものが、近代においては「裁判」という制度です。そして、そこで問題を裁く根拠となるのも、やはり

「常識」だと言っていいと思います。

 さて、回り道をしましたが「表現の自由」のことです。「表現の自由」とだけ言えば、もともとそれは普遍的なこ

とであることは、誰でも直ぐに理解できます。自分の意志で何かを表現することは、誰でも、いつでも、どこで

でもできます。極端な言い方をすれば、地面に掘った穴に向かって大声で何を言おうと自由です《これを第一

義的な「表現の自由」としましょう》。しかし、これが他人に向けられた時は、「表現の自由」は普遍的に成り立

つというわけには行きません。誰かに向けて悪口を言えば、言われた方は怒るのが普通です。悪口を言う

者が「表現の自由」を主張しても、言われた者が「怒りを表現する自由」もあるからです。個人間のことであ

れば、ケンカとなり、悪いのは悪口を言った者の方となり、これが「常識」です。これが民族間や国家間であれ

ば、このような常識破りから容易に戦争が起こります。国家間の場合は悪口と言うよりは、いわゆる悪事

(不当な取引をする、不法な侵略をする、不当な攻撃を仕掛ける、‥)を働く結果でしょう。このような事例は、

過去から現在に至るまでの世界の歴史を見れば枚挙に暇がありません《この、常識に制約されるものを、

第二義的な「表現の自由」としましょう》。

‥‥そこで今回のフランスの新聞社シャルリ・エブドの事件です。もとより、テロリスト側に弁護の余地など

まったくなく、断罪あるのみです。テロの犠牲になった方々にはお悔やみを申し上げるばかりです。しかし、

問題はイスラム教を愚弄した風刺画を掲載した事実を、この新聞社自身がどう考えていたのかです。もし

新聞社が、イスラム教に対する特殊な恨みがあっての風刺画掲載であれば、それはイスラム教に対する

攻撃でしょう。そうであれば風刺画掲載は、イスラム圏サイドから何らかの反発や報復を十分予想した上で

の行為だったと言えます。これはイスラム教に対する“宣戦布告(控えめに言っても挑発)”の性格の

ものですから、今回のようなテロの報復の可能性は、最初からあったことになります。あるいは、特殊な恨

みなどはないが、イスラム教に対する純然たる皮肉、冷やかしの意図であったとしたら、これは“面白半分”

という愉快犯の行為と同じものになります。しかしこれは、イスラム教徒が抱く不快感を慮れば、間違いなく

犯罪行為でしょう。この行為は、フランスがキリスト教国だからできた話で、イスラム教国であればそれだけ

で処罰されています。いずれにしても、「表現の自由」を拠り所にしたとしても、 シャルリ・エブドの今回の行

為は、“常識はずれ”の誹りを免れることはできないでしょう。それでも「表現の自由」を盾に自分の正当

性を言い張ると したら、それは“盗人猛々しい”という類のもので、恥知らずな言い分に自分で気が付い

てないということになるでしょう。要するに、シャルリ・エブド には第一義的な「表現の自由」だけがあり、第

二義的な「表現の自由」は念頭にないのです。これは簡単に言えば、「表現の自由」の取り違えだというこ

とです。 考えてみれば、「表現の自由」とは両刃の剣で、独裁政権による圧殺への抵抗の証として主張さ

れることもあれば、独善的なエゴイズムに基づいて主張されることもあるのです。どちらも被害者の立場

を取ることが多いので、一見すると見分けが難しいかも知れませんが、それを「常識」に基づいた判断の

方途に従って見ると案外と氷解するのではないかと思います。それはほとんどのケースで、第一義的な

「表現の自由」と、第二義的な「表現の自由」との取り違えなのです。そして、この取り違えが、意識的なも

のであれば本質的に悪質であり、無意識的なものであれば本質的に幼稚なのです。

 

<寒の入りの中で、寒さに強いのがロウバイとパンジーです>

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コメント

こんばんは♬
遅く成って御免なさいね(^_^;)
休みが終わってからも忙しい毎日に戻り、ココログもまともに行けません(^_^;)
このまま続けるのもどうかと思いつつ続けてしまい御免なさいね

ルールって簡単なのに、難しいですよね。
物心ついた時から自然とルールを知って大きくなっていくのだと思いますが
産れた国のルールが、銃を持ち戦う事なんて小さな子供もそれが当たり前だと…
物の少ない国では他の人たちから貰うのが当たり前だと思っている人も居ると思います
常識がどこにあるのか、知るすべがあるのかな。
そう思えば、この国で生まれ貧しくとも生活していけるのならば有り難い事ですね。
最近は、何を考えているのか分からないって思える事件が多くて悲しいです。
他の事を持って知って欲しいですね。

蝋梅は好きです♪香りと薄く透けている花びらがかわいらしくって
見ると1月だなぁって思います(#^.^#)

今晩は。
ココログは一番後回しでいいと思います。暇が前提の参加ゲームですからね。
義務感に駆られているとしたら、それは話がアベコベです。これ、常識だと思います。happy01good
常識は皆の思いの中にあります。つまり、「これは常識だろう」と思うことが常識でしょう。
常識に近い概念は、価値観と言ってもよさそうです。ですから、もともと主観的なものです。
皆の主観的な価値観の最小公倍数(あるいは最大公約数?)が、常識でしょう。
‥‥次はまた、「六条御息所」に戻ります。

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