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2015年10月

2015年10月29日 (木)

「マイナンバー考」

そろそろ我家にもマイナンバー通知が届くかと思っているのですが、まだいていません。昼のテレビのワイドショーなどでも盛んにマイナンバー制度のことが取り上げられていますが、これらを見て、また私も感じたことを言ってみようと思います。

 

 マイナンバー制度の目的は、国民の所得のより完全な把握ということでしょう。これ以外にありません。人によっては将来の「徴兵制」のためとか言いますが、これは今の住民登録制で足ります。70年前までは、これに基づく“赤紙”で徴兵したわけですから、もしやろうとなればもちろん憲法改正が必要ですが)今のままで十分で、マイナンバーなど関係ありません。また、某国のようにほとんどの金銭取引にマイナンバーの記載が義務付けられ、それが権力による個人の素行調査や思想調査に利用されているのと同じことが起こると杞憂する意見もありますが、もし日本が準戦時体制下になればマイナンバーどころか、メール、電話、郵便その他の通信システムは監視対象になるのは確実でしょう。現在でも犯罪に関わればこれらには捜査権限が及んでいるのですから、今マイナンバーだけを取り上げて騒ぐ話ではないのです。それでもどうしても嫌ならこのようなシステムのない国に亡命するほかないでしょう。‥‥やはりマイナンバー制度の狙いは、国民の所得(給与所得、雑所得、譲渡所得、事業所得、不動産所得、配当所得、利子所得‥等々‥)をもれなく正確に補足し、徴税の確保を図るということでしょう。これは、ひとえに国の利便のためであり、国民の利便のためではさらさらありません。国民にとって今までに受けている利便がさらに大幅にアップすることなどまず期待できないでしょう。せいぜい確定申告がスムーズになるくらいで、これは徴税手続きがスムーズになることの裏返しに過ぎません。

 

 では何故、国は今からこれをやろうとしているのでしょうか。国民は(特にサラリーマンは)悪質な脱税者を除けば、今までも正直に税金を納めてきたはずです。これ以上何を払えというのでしょうか。あるいは何か納税制度を変えようとしているのでしょうか。それは端的に言えば、徴税の漏れをなくすことによって国の徴税総額のアップを実現させようとしているということでしょう。つまり、現在日本全体でどれだけの「徴税漏れ」があるのかは分かりませんが、目先的にはこの徴税漏れの解消による税額アップに加え、将来的には、いずれ実施すると予想される現行課税システムの抜本的な見直し(各種課税率を始めとして、軽減税率、累進税率、課税種類、課税区分、課税限度額などの変更および新たな財産税の導入など)を睨んで、今から隙のない基盤づくりを進めていこうという考えでしょう。

 

 日本の国がこうして、いわば“効率的徴税システム”の導入へと着手した動機(背景)は何であるのかといえば、国家財政の破綻が遠くない時期に起こることが確実視されているからでしょう。国家財政の破綻とは直接的には国の借金(大部分が国公債)の返済不能(デフォルト)ですが、間接的には社会保障制度(健康保険、年金保険、生活保護、老人医療、各種恩給‥‥)の崩壊にも繋がります。当局としては今これを手をこまねいて見ていることなどできません。いざ「大徴税!」という時の頑丈な“投網(とあみ)”作りをいよいよスタートさせたという訳です。大徴税、投網と言っても、誰彼が言うような、“国の1,000兆円の借金を国民の1,000兆円の預金で肩代わりさせる”などという無茶苦茶なことが今できるはずがありません(昭和の敗戦後はGHQ占領下で、預金封鎖、財産税課税(25%~90%)、デノミネーションが実施された。国債は財産税を原資に償還されたが、これは事実上、国民に国の借金を肩代わりさせたものである)。総理大臣も日銀総裁も今そんな権限は持っていません(“戒厳令”の法制度はない)。しかし税制の変更は法律でできます。現に消費税は1988年に誕生後、税率は3%→(4%)→5%→8と引き上げられてきましたし、将来的には20%前後までの引き上げが想定されています。そして現況は、もう消費税の引き上げ程度では国の借金返済には“焼け石に水”状態なので、色々な徴税方法を検討(画策)し始めたということなのです。

 

 ここから先、これが上手くいくかどうか誰にも分かりません。政府のこのやり方を私たち国民がどこまで容認するかも分かりません。しかし、恐らく何度か政権交代を繰り返しながらもこの方向(大徴税)へ進んでいくことは間違いないでしょう。他に方法がないからです。

 

‥‥マイナンバーの導入と同時に、以上のことは最低限、念頭に置くべきことでしょう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=SzGm0qOooJ4

 

 

 

 

 

 

2015年10月22日 (木)

短歌

 

鎌倉に住む旧会社の知人から“鎌倉の秘境”を歩かないかと誘

いがあり、もう一人誘って三人で1019日に歩いてきました。

“秘境”とは大袈裟で、要は普通あまり歩かないコースを行こ

うというものでした。 江ノ電の極楽寺駅に集まりそこから⇒

霊仙山(れいせんざん)⇒稲村ヶ崎⇒御霊神社(ごりょうじん

じゃ)⇒<‥江ノ電‥長谷→鎌倉>⇒佐助稲荷⇒葛原ヶ丘公園

(昼食)⇒魯山人の星岡窯⇒台峯(だいみね)⇒東慶寺⇒亀ヶ

坂⇒浄光明寺⇒<‥小町通り‥>飲み処「いさむ」‥と最後

はお酒で締める形でした。 

930集合~1630飲屋、万歩計で3万歩強の行程でした。

 

1_2道らしいものはありません

23跡碑です

4稲村ヶ崎にある碑

5山頂から由比ヶ浜が見えます

 

霊仙山は稲村ヶ崎を見下ろす海岸沿いの低山で、見晴らし

が絶景で、明治41年にドイツの細菌学者コッホが、教え子

の北里柴三郎の招きで来日し、鎌倉に滞在したことを記念

してこの霊仙山の山頂にコッホの記念碑を建てたのです。

実際にコッホはこの山からの景色を大変気に入っていたよ

うです。関東大震災で倒壊の被害を受けたりしたのですが

建て直され、その後昭和58年に稲村ヶ崎に搬送されて現在

の形の碑として建て替えられたのです。

今でははっきりした登山道もない霊仙山に人が足を踏み入

れることはほとんどないらしく、今回も雑草に覆われて隠

れていた跡碑を私達はやっと探し当てたのです。

《今回、大村智博士のノーベル賞には、霊仙山からコッホ

と北里柴三郎も祝意を贈ったことでしょう》

 

1_32_2

3_24_2

5_2一歩間違えるとズブズブ!

 

 

その後のルートでは台峯(だいみね)が“秘境”らしさ

を見せていました。鎌倉市は周辺こそ工場や宅地、霊園

・墓地などの開拓が進み、もともとあった地形や緑地が

かなり侵食されていますが、一方で古都の里山的風景を

保存しようとする努力もなされ、所々に思いがけない自

然的風景が残されています。その一つが台峯で、鎌倉中

央公園の拡大地域として位置付けられ、緑地の保全が図

られています。私達が入った時も、湿地・池にはカワセ

ミが飛翔し、径を横切るナラの幹にコゲラがとまって皮

をつつく姿がありました。ここではオオタカやフクロウ

などの貴重種の動物も確認されているのです。今やこの

ような環境は人間が意を用いて保存しなければどんど

失われてしまうということなのです。

 

 

6

台峯の近くには北大路魯山人の星岡窯跡があります。戦後

の一時期彫刻家のイサム・ノグチ、山口淑子夫妻が住んで

いました。私有地のため今は中には入れません。

1_42_3

3_34_3

 

 

 

この後、従前のブログでも紹介しました東慶寺と浄光明

寺に寄りました。両寺ともますます秋の花が映えていま

した。

 

飲屋「いさむ」では、何のきっかけでか、友人の一人が

大正昭和の歌人の吉井勇のことを言い出して吉井勇の代

表歌を口したのです。

『かにかくに祇園はこひし寢(ぬ)るときも

 枕の下を水のながるる』

(とにもかくにも祇園は恋しいところだ。酔って寝てし

 まっても枕の下を川の水が流れるのが聞こえてくる‥)

う~ん、こういう心境の歌を私も詠みたいものですが、

とても到達できませんね。精神的にも、環境的にも、

経済的にも。せいぜいいま詠めるのはこんな歌です。

 

かにかくに頭の中に滲みていく ブルーモンクの枯

葉の響き

 

(「ブルーモンク」はセロニアス・モンクのジャズ曲。

 私にはシャンソンの「枯葉」の変曲に聞こえるのです)

ではまた。

https://www.youtube.com/watch?v=J4X5folutT8

 

 

2015年10月10日 (土)

短歌

 

秋のうららかな天候の108日にカルチャー教室で鎌倉の

七里ヶ浜界隈の史蹟を訪ねました。鎌倉から江ノ電で七里

ヶ浜まで行き、「霊光寺(れいこうじ)」⇒「西田幾多郎歌碑」

⇒「稲村ヶ崎」⇒「十一人塚」と見て、再び江ノ電で鎌倉

に戻るコースでした。

霊光寺までの道は今は住宅が立ち並んでいますが、鎌倉時

代は農民が暮らす村で、ある時ひどい干ばつに苦しみまし

た。執権北条時宗は極楽寺の僧正に雨乞いの祈祷を命じた

ものの一向に効果がありませんでした。そこへ日蓮があら

われ、干上がった池に向かって三日三晩法華経を唱えてい

ると、やがて空がかき曇り雨が降りだしたのです。この池

を<雨乞いの池>といい土地の人は大切にしていました

(今は埋め立てられてしまいました)。

鎌倉の西のはずれでかなり鄙びた佇まいの寺ですが、境内

の辺り一円は霊験が漂う趣がありました。

12

3日蓮大菩薩祈雨之旧跡也とあります

45日蓮聖人像

6鬱蒼とした木々の中に本堂が見えます

7


8



 

 

 

 

 

海を目の前に臨む国道134号線沿いに西田幾多郎の歌碑が

あります。

『七里浜夕日漂う波の上に 伊豆の山々果し

知らずも』

(西田幾多郎は昭和3年から昭和20年に没するまで稲村ヶ

 崎の姥ヶ谷に住んだ)

9

11西田幾多郎歌碑

12

 

 

 

 

稲村ヶ崎は鎌倉側の由比ヶ浜と江の島側の七里ヶ浜を分

かつ場所にある岬です。新田義貞が鎌倉攻めの要衝とし

たところとして有名です。義貞が自分の剣を海に投げる

と潮が引き、軍勢が浅瀬を渡って由比ヶ浜に入ることが

出来たのです。

その逸話に基づいて明治天皇が詠った歌碑があります。

『投げ入れし剣の光あらはれて 千尋の海も

 くがとなりぬる』 〔(注)くが:陸のこと〕

1314

15
17_2展望台から富士山も見えます

 

 

 

またそこには、「ボート遭難の碑」が立てられていて、

『七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)』の一番、二番が

彫られています(歌は六番まであります)。

1910(明治43)年1月に逗子開成中学のボート部員(部

員の弟の小学生1人含む)12人が海に漕ぎ出たところ波

浪で船が転覆、全員が海に投げ出され溺れ死ぬという痛

ましい事故が起きてしまいました。その顛末を知った鎌

倉女学校の教員であった三角錫子(みすみすずこ)が一

晩で作詞し、もともとあった賛美歌に合わせてこの歌が

出来上がったと言われています。

 

1819

 

 

1 真白き富士の根 緑の江の島
 
  仰ぎ見るも 今は涙
 
  帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
 
  捧げまつる 胸と心

2 ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原
 
  風も浪も 小(ち)さき腕(かいな)に
 
  力もつきはて 呼ぶ名は父母(ちちはは)
 
  恨みは深し 七里が浜辺

由紀さおり・安田祥子姉妹の唄をYouTubeでとりました。

https://www.youtube.com/watch?v=7aGOdZXwKng



 

 

 

私も一首詠んでみました。

波引いて足に残りし黒き砂 七里ヶ浜に

秋は来にけ

 

 

 

最後に「十一人塚」を観ました。

1333(元弘3)5月鎌倉攻めの新田義貞軍の一族である

大館宗氏は大軍を率いて極楽寺坂の切通しへ攻め込んだ

が、北条方の猛反撃をうけて多数が討ち死にし、最後に

残った11人も稲瀬川で自刃したと伝えられている。 ここ

「十一人塚」にその11人を葬り、十一面観音堂を建てた

とされています。

2021

 

 

 

最後にもう一首

もや薄れ青く静まる相模灘 航跡引いて

船が帰りぬ

10_3

 

 

 

 

 

 

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